千両過眼

東京在住の会社員の男性です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

「水墨の風 長谷川等伯と雪舟」

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○2017年6月17日
「水墨の風 ー長谷川等伯と雪舟」前期(出光美術館)

日本の水墨画の大成者、雪舟。雪舟に私淑した桃山の巨匠等伯。この二人を軸に、日本の水墨画の「風」=「画風」を追っています。

玉澗「山市晴嵐図」、雪舟「破墨山水図」、能阿弥「四季花鳥図屏風」、等伯の「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」など、出光美術館ではおなじみの作品が並びます。
これらからは、すぐにでも玉澗→雪舟、牧谿→能阿弥、等伯などといった関係が見て取れそう。
ちなみに雪舟の「破墨山水図」は破墨でなく「溌墨」なんじゃないかと読んだことがあります。
ともあれ牧谿、玉澗の日本水墨画への影響は絶大ですね。室町から江戸にかけて、皆で牧谿の絵を写している印象。等伯の「竹鶴図」はもちろん、たとえば其一や江戸狩野が手控えや模写として描いたのも展覧会で見たことがあります。
山上宗二が牧谿の絵のことを書いていますが、個人的好みなのか、それともその時代の茶人間での評価なのか、絵師たちのテンションとの開きは興味深いです。
それにしても館内、水墨画の湿潤なモノトーンの世界に取り囲まれているのは、一種独特な心地。深山幽谷に来たような。ついでに水音や風の音も聞こえてきそう。
「待花軒図」が久し振りでした。この書斎図は好き。本当は詩の方も読解できるといいのですが。

近世のコーナーでは、浦上玉堂や田能村竹田、池大雅らの文人画的個性が花開きます。そして、やはり牧谿に近い湿潤感を持つ探幽の水墨画。余白はやはり探幽ですが。
闊達で自由な筆致の尚信「酔舞・猿曳図屏風」の絵はがきを買いました(下の写真、部分)。
岸駒、呉春の合作「群仙図屏風」の二人の筆致が余りにも違うのが面白かったです。ところで、四条派と岸派のそれぞれ始祖である二人の接点はどこに?この頃の京都の絵師の横の関係は興味深いです。
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「棄霊島 上・下」

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◆2017年6月15日
「棄霊島 上・下」(角川文庫)
内田康夫

今作の主舞台は長崎の軍艦島。戦時中のこの島の歴史から、現代の悲劇につながる話。
過去から語り起こさねばならないとはいえ、この上下巻は少々長いです。
ずいぶん長い期間読んでいたので、下巻を読んでる頃には上巻の登場人物も忘れてしまい、あれ、これ誰だっけ?ということが何度かありました。
著者の歴史観に関する所感がたびたび顔を出して、今回先生、饒舌だなと思いました。
終盤の二組の老若対決は、上下巻分の中身がぎゅっと凝縮して、どちらもいい場面でした。

画像は長崎空港の近くから撮った写真です。
(2017年 24冊目)

サントリー美術館「神の宝の玉手箱」2回目

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○2017年6月
「神の宝の玉手箱」2回目(サントリー美術館)

サントリー美術館で再び「神の宝の玉手箱」を見ました。
この日はなぜだかとても空いていて、展示を好きなだけ見ることが出来ました。
混んでないときの美術館って、とても得した気持ち。

「菊慈童蒔絵手箱」なのに菊慈童が描かれず、菊と柄杓、流水でモチーフを暗示する留守文様、こういうの日本文化の面白いとこだなあと思います。
七夕説話と縁が深い(浦島物語とも関係ありそう)「天稚彦物語絵巻」。
いつもサントリー美術館では展示されるんだけど、いったいどんな話なのか。いつか全貌を知りたいです。

修理が終わり、初公開されている「浮線綾蒔絵螺鈿手箱」をじっくり見られました。修理前よりも輝きが増した気がします。
現代の文化財修理は現状維持修理。今回の修理の方法がパネル展示されていました。
なにしろ800年前のもの、拡大写真で見ると細かいキズも見えています。でも時間を超えて、これだけの美しさを保っているのは、長い年月、大事に、大事にされてきたからに違いありません。
この手箱の地の部分は、金粉を蒔き詰めた沃懸地(いかけじ)。密度が濃くて近くで見てもわかりませんが、大量の金粉が使われているそうです。
浮線綾文の部分は、一枚の螺鈿に細工しているのではなく、それぞれが13のパーツから構成されているとか。
遠目に見ると、まるで幾何学文様のように見える(螺鈿の光り方は一枚ずつ違う)のですが、近くで見ると蒔絵の配置や隙間の部分の形が微妙に違っていて、これは人間が作った物なのだ、と再認識します。かえって日本人の手わざの凄さを思い知らされました。 ba5980e0.jpg

「古典の細道」

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◆2017年6月13日
「古典の細道」(講談社文芸文庫)
白洲正子

白洲正子「古典の細道」を読みました。
倭建尊、在原業平、小野小町、建礼門院、平維盛、花山院、世阿弥、蝉丸、継体天皇、磐之媛皇后、惟喬親王、東福門院、歴史上の12名の人物について書かれています。

古典について著者から教えられる知識は多いです。
でも一番は、古典に描かれた人々の時代が、私たちの現代とひと続きだと意識させられるところです。
業平、小町にしても、維盛や建礼門院にしても、私たちはどこか物語中の架空の人物のように思ってしまいがち。現実の彼らが何を思い、どんな人生を送ったのか、文献で読むことはできても感じることは難しい。
著者は、伝承の虚実のあわいから人物の姿を汲み上げ、実際にゆかりの場所を訪れることで、何百年も前の生の痕跡を辿ります。

「空気のように歴史の香りがたちこめているのは、歴史にとって或いは理想的な在り方かも知れない。土地にしみついた伝承ほど根づよいものはない。それは自然の草木のような生命力を持つ。(中略)
ここに来てみると、一時的にも皇子がいられたことを信じざるを得ない。人間ばかりでなく、山川草木、すべてそのことを語っているように見える」(「花がたみ」より)

歴史が、あるいは歴史上の人物が土地と一体化して今も息づいている、これは感覚として理解できる気がします。
だとすれば、歴史というのは単に過ぎた過去というのではなく、現代の一部でもあり、私たちは無意識にでもその空気を呼吸しながら生きているのだ、と思わされました。

写真は、滝尻王子付近の熊野古道です。
(2017年23冊目)☆☆☆

「若冲」

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◆2017年6月6日
「若冲」(文春文庫)
澤田瞳子

以前から読みたいと思っていた本が、先頃文庫になりました。
若冲の半生を描いた連作集です。
京都錦小路の青物問屋枡源に生まれた若冲。妻帯した記録はありませんが、本作では自死した妻への贖罪のために絵を描き続けたことになっています。
実際、若冲の「動植綵絵」の、あの濃厚などぎつさが、私は好きになれません。
本作にいう「奇矯、陰鬱」で「生の喜びの欠落した」若冲の絵にこのような背景を設定したことで、急に若冲が血の通った人物として感じられるようになりました。

物語は、生家とりわけ実母との確執、宝暦事件に連座した公家との関わり、錦市場存続をめぐる騒動、京を灰燼に帰した天明の大火などが、時系列に沿って描かれます。
その折々に若冲の陰の存在として登場するのが妻の弟、弁蔵。
姉の死の原因が若冲と枡源の者たちと考える弁蔵は、やがて若冲の贋絵作者、市川君圭として彼の前に現れます。
現在、伝世する若冲作品といわれるものの中で、作中では君圭の作ということになっているものがあります(実在の市川君圭は贋作者ではありませんが)。
彼との生涯を通じた関係が、この物語に深い陰影を落としています。

それにしても著者の書きぶりは巧みです。
京都の持つ情趣や市井の空気感。若冲の特異な絵の内奥の理解はなるほどと納得できるものだったし、自分が若冲の絵を好きになれない理由についても改めて考えさせられました。
若冲や弁蔵、志乃らの姿を通して、人間の孤独や生の哀しみを描き出している点が本当に素晴らしいと思いました。

上の写真は現在の錦市場。
アーケードの天井から、この前までなかった若冲の垂れ幕がかかっています。
下の写真は若冲展の絵はがきから「大鶏雌雄図」「雪中錦鶏図」(いずれも部分)です。
(2017年22冊目)☆☆☆


宝塚星組「スカーレットピンパーネル」

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●2017年6月10日
宝塚星組公演
ミュージカル「スカーレットピンパーネル」(東京宝塚劇場)
出演:紅ゆずる 綺咲愛里 礼真琴 七海ひろき 壱城あずさ 天寿光希 瀬央ゆりあ 有沙瞳 夢妃杏瑠 星蘭ひとみ 英真なおき

宝塚星組の「スカーレットピンパーネル」を観ました。
新トップ紅ゆずると綺咲愛里のお披露目公演。予想通りというか、ある意味予想の上を行く舞台でした。
帰ってから、星組初演時のDVDを見直してしまいましたよ。
思うに、紅ゆずるという人はどんな演目も自分に引き付けて、強烈な個性で紅色の紅ワールドに染めてしまう人なのでしょう。そのびっくり箱的な個性で、これまでの誰のとも違う未知の体験を味わわせてくれます。

舞台はフランス革命後、ロベスピエールによる粛清の時代。
恐怖政治に反感を持つ英国貴族パーシー・ブレイクニーは、秘かにスカーレットピンパーネルを名乗って、フランス貴族の亡命の手引きをしています。
妻で元女優のマルグリットが、革命政府のショーブランに協力者の情報を流しているのではと疑念を抱くパーシー。次第に冷え込む夫婦関係。

紅のパーシーは、とにかく脳天気な変人という役作りで、これまでのパーシー像を一新させるものでした。
いうなれば、パーシーという役を紅ゆずるにしてしまったというような。
でも、これが仮面を被った仮の姿だと考えればおかしいことはない…かも。むしろ、ここまで変な奴を演じることで(時代劇でいえば、うつけを演じるってやつですね!)、パーシーの存在は際立ちました。
何しろ、あの抜け目ないショーブランさえ、正体に気付かなかったぐらいだから!
時々、紅のふっとした沈黙や佇む姿に本来のパーシーがほの見えて、これはよかったです。
残念だったのは、疑いを持ってからのマルグリットへの態度ですね。
ここは彼女への愛と確信に近い疑惑(あと、もしかしたら嫉妬?)の間で思い悩む、人間的な部分ですが、私には、既に九分九厘彼女への愛が冷めている状態に見えました。
というか、最初から大してマルグリットを愛してるように見えない!一体なぜ彼女と結婚したのか、よく分からない!
そういえば、あの「紅はこべ団」結成の場面も、何だか楽しげな場面になりました。
紅の個性が苦悩や深刻さを表に出すのを嫌い、ひたすら明るく振る舞うのが美学と考えれば、こういうのもありなんだな、と思わせます。見終わった後に、楽しかったーと観客に思わせれば勝ちなのだから。

紅パーシーと対照的に、礼真琴の革命委員ショーブランに凄みがありました。革命前の民衆の苦しみや、革命後の密告奨励、歯車の狂った世相の一端をもうかがわせる演技でした。
歌ももちろん上手と思っていましたが、これだけ強い歌が歌える人とは初めて知りました。
そして、紅の破天荒な芝居を受けるのを頑張ってたと思います。
英国皇太子主催の仮面舞踏会で着る衣装をパーシーが貸してやろうという場面、この日は貸切で、紅がVISAカード持ってるから云々と言うのは序の口で、
紅「VISAって五回言って」
礼(指折って数えながら)「VISA、VISA、VISA、VISA、VISA」
紅「じゃ、これは」(と自分の脚を指差し)
礼「膝」
紅「こういう時はVISAって言うんだよ!」とVマークを作りながら退場。
この後のマルグリットに対するショーブランのセリフ「君はあの男のどこに惚れたんだ」で場内爆笑。
今後の公演でもきっと、真面目な真琴君が芝居を壊さぬよう気を遣いながら、紅のギャグを受ける場面がたくさんあるんだろうなあ。

新娘トップの綺咲愛里は、いきなりマルグリットという癖のある役で、大人っぽい演技にしようという意図は見えましたが、歌も芝居も頑張ってほしいところです。
七海ひろきがロベスピエール役。狂信的な理想主義者で、フランス革命後の歪みの元凶。この役はセリフも歌も少ないので存在感を出せといっても大変ですが…。
宙に目をさまよわせながら無表情でいるとこなんか、そこはかとなく狂気を漂わせて絵になるんですけどね。
どうしても彼女は若く見えてしまうので、コメディ・フランセーズの客席でもショーブランと同輩のように見えてしまい残念でした。
グラパンとの共演シーンがほぼ笑いに流れていきがちなので、その辺も苦労だと思います。
アルマン役の瀬央ゆりあ、マリー役の有沙瞳が、どちらも見目よく上品な芝居で、印象に残りました。
大逆転のラストは胸がすっとします。とはいっても紅のキャラクターからいって観客全員、演目を観たことがない人も、ハッピーエンドを予感していたと思いますが。むしろ、グラパンとしてパリに護送されていくショーブランが哀れです。

2幕物なので、ショー部分はほんの少し。
珍しい剣を持った燕尾がありました。トップ二人のデュエットダンスは綺麗です。
終演後、紅ゆずるの挨拶がありました。
彼女がなんか喋るというと、ついつい面白いことを言うんじゃないかと期待してしまいます。
「今日は前楽で、残すところあと2公演。これからもお客様に笑顔で帰っていただける舞台を目指していきたい」みたいなこと。最後は「本日はありがとうございました」と型通りに締めた後、幕が下り始めるともう一度「ありがとうございましたーっ!!」。
あ、これベニーらしい、と思い、ちょっと得した気になりました。

「キトラ・ボックス」

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◆2017年5月23日
「キトラ・ボックス」(KADOKAWA)
池澤夏樹

ジャンルから言うと考古学ミステリーというべきでしょうが、その枠を超えて面白い小説でした。
天川村の神社に伝わる鏡と銅剣の調査を依頼された考古学者・藤波三次郎。この鏡がトルファン、および大山祇神社の禽獣葡萄鏡と同鋳型から作られたものではないかと考え、民博の研究員・可敦(カトゥン)とともに調査を始めます。
やがてこれらとキトラ古墳との関連性が浮上。大山祇神社へ調査に向かう二人。
帰途、可敦の拉致未遂事件が発生。可敦の兄は新疆ウイグル自治区の独立運動に関わっており、そのことと関係しているらしいのですが…。

禽獣葡萄鏡と銅剣から始まる考古学の謎解きは、読んでいてわくわくしました。
古代史って面白いですよね。実際のキトラ古墳をめぐる謎にフィクションを絡めて、まさに「見てきたように」肉付けされていくのが鮮やかでした。
途中、眠りにつく古墳の主の記憶が独白として入り、現代パートから1300年前のパートに時間が遡ります。折口信夫の「死者の書」を思い出しました。
古代の日本と大陸をつなぐ展開は、これだけでも短編小説になりそうです。
事件の渦中に巻き込まれる可敦という女性が、ミステリアスで魅力的でもあります。彼女を守ろうとする三次郎や美汐たちもよく描かれています。
この作品では一人称の語り手が次々と変わっていきますが、実はこれが読者に全体像を悟らせないための仕掛けになっているようです。
最後まで読むと、ああ、そうだったんだ、と納得。この腑に落ちる感じが気持ち良かったです。

古代と現代のパートが見事に呼応して美しく収束するラスト。古代の遺物が時間と空間を超えて結ぶ、不思議なえにしの物語。民族や国家の壁をも超越する絆。
読後感が極めて良いだけではなく、1300年前の古代が身近に感じられました。

写真は奈良公演の鹿です。
(2017年18冊目)☆☆☆☆

「神の宝の玉手箱」

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〇2017年6月4日
六本木開館10周年記念展
国宝《浮線綾螺鈿蒔絵手箱》修理後初公開
「神の宝の玉手箱」(サントリー美術館)

玉手箱は、もとは櫛や鏡などを入れた「唐櫛笥」が原型なのだそうです。
鏡や櫛そのもの、または化粧という行為が呪術的な意味を持つわけなので、これらを収納するべく作られた箱が神聖視されるのは当然なのかも。
玉手箱というと、私たちは浦島伝説を思い浮かべます。乙姫から渡される箱には文字通り呪力が封入されていて、それは竜宮の生活に適応していた浦島を人間界の時間に戻すものでした。
竜宮伝説の残るという鹿児島・枚聞神社の松梅蒔絵手箱と内容品が展示されていました。

並んでいる手箱はもちろん最上の工芸品。でもそれ以上に用途から来る、ものの性格付けというのが面白いと思いました。
季節の風物のほか吉祥図柄や有職文などの文様が描かれていますが、元々は意匠も手箱の用途と何らかの関係があったのではないでしょうか。
他で読んだ記事によると、例えば「片輪車文」は、乾燥によるヒビ割れを防ぐために水に浸した牛車の車輪というだけではなく、蓮華をイメージしており、経箱などの意匠によく使用される、ということでした。

サントリー美術館のシンボルマークの一つといっても良さそうな浮線綾文は、円の中に四つの花文を割り付けたもの。
その「浮線綾螺鈿蒔絵手箱」が修理後、初のお目見えです。まさに玉手箱と呼ぶに相応しい風格です。
表面に撒かれているのは金粉で、螺鈿の浮線綾文があしらわれています。蓋裏も見せてもらえるそうなので、楽しみです。

下の写真は、5年前の「おもしろびじゅつワンダーランド」のときの浮線綾螺鈿蒔絵手箱(修理前)。
このときは、蓋裏の模様を天井に映し出して、箱内に入った気分が味わえるという演出もありました。

「風のかたみ」













◆2017年5月31日 
「風のかたみ」(朝日新聞出版)
葉室麟

「墨龍譜」が著者50作目の小説ということだったので、本作は51作目になるのでしょうか。
葉室先生、本当に多作!書きたいものがたくさんあるんでしょうね。
「風のかたみ」は武家物ではありますが、これまでとは、やや毛色が違った小説でした。

豊後の小藩の女医、桑山伊都子は、上意討ちとなった重臣・佐野家の女たちを「生かす」ために、彼らが住む白鷺屋敷に行くことを命ぜられます。
当主の妻、長男の妻と娘、次男の妻、そして三人の女中。彼らの間に流れる奇妙な空気。
そして、屋敷に烏天狗の面を被った闖入者が…。
(以下、ややネタバレあります。未読の方ご注意下さい)

外界と遮断された屋敷の中で、次々に起こる不可思議な出来事。何を考えているのか分からない女たち。あたかも心理ミステリーのように話は進みます。
とくに次男の妻・初の、男を翻弄する魔性の女というのは、これまでの葉室作品にないキャラクターで、どうなるのだろうと期待したのですが…。
おぼろげながら全体の構図が見えてきてからは、やや興味が削がれました。
屋敷の女たちの行動原理に今一つ納得できなかったし、初の人格も、私には最後まで掴みきれませんでした。
全体としては手堅くまとめられているとは思いますが、着想の面白さが十分に生かされていない気がしました。始め面白かっただけに残念に思いました。
(2017年21冊目)

特別展「快慶」

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〇2017年5月27日
特別展「快慶 日本人を魅了した仏のかたち」(奈良国立博物館)

先週末に奈良の「快慶展」に行きました。
快慶に惹かれたのは、高野山展からです。運慶のリアルとはまた違った、四天王像や孔雀明王像の洗練、華麗さが、展覧会後にも思い出されて。
次に大津の石山寺。本堂の上にある多宝塔の中を何気なしに覗いたところ、暗がりに等身大の大日如来が、白目を光らせてじっと座っていたのが印象的で、まるで真っ直ぐこっちを見据えているように思えたのを覚えています。

土曜の午後で結構混んではいましたが、天井が高いと混雑がさほど気になりません。
入ってすぐに快慶初期の代表作、醍醐寺の弥勒菩薩坐像があります。
理知的、気品高い姿。金泥の沈んだ輝き、繊細な瓔珞や衣文の線が美しいです。近くで見ると截金が施され、掌上には五輪塔。
非常に調和がとれた姿で、しばらくぼうっと眺めてしまいました。
今回の展示を順番に見ていくと、やはり統一性というか、快慶風とでもいうべきものがあることに気付きます。これが安阿弥様というもの?
ふっくら丸顔で柔和なフォルムながら、表情に厳しさも感じさせる。四天王や明王だけでなく、如来や菩薩もそう。
快慶は醍醐寺の弥勒菩薩坐像を「如法」に則って制作したそうです。経典や恐らくは和漢の仏画等を学習し、この仏はこう、とひたすら真面目に造像していた姿が浮かびます。
快慶=絵画的とよくいわれますが、ミケランジェロ的な人体追究の(と私は思う)運慶に対して、あくまでも仏の理想像を目指した快慶、という気がします。それは、快慶が熱心な阿弥陀信仰者だったことに由来するのでは。

東大寺の僧形八幡神坐像とか、栃木・地蔵院の観音勢至両菩薩像とか、珍しい仏像神像をたくさん見ました。
地蔵院の観音、勢至菩薩は、後から造られた本尊阿弥陀如来の脇侍で、観音は大和座りから一歩膝を進めて立ち上がろうとしているように見える坐像、勢至は体をやや斜めに傾けた立像という珍しい組合せで、初めて見ました。
数多く造られた三尺阿弥陀の着衣の処理が、制作の時期によって変わっていくのがわかりました。
石山寺多宝塔の大日如来坐像は、明るいところで見ると、堂内とはまた異なる印象でした。
細身の体格。まなじりが上がり、若々しい顔立ち。お下げのような髪?が左右の肩まで垂れています。
大日如来=宇宙というだけあり、存在感がありました。本来の場で見るのが一番ではありますが、博物館の中にあってさえ、ついついもう一度振り返ってしまいそうです。

快慶の信仰者としての姿勢を考えると、この展覧会は仏教や仏像について知識があれば、もっともっと面白いだろうなと思いました。
見終わったら知らぬ間に時間が経っていて、かつての春日大社の塔の跡で鹿たちがのんびりと休んでいました。のどかな光景で、奈良に来られて良かったと思いました。
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