千両過眼

東京在住の会社員です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

2015年06月

「有頂天家族 二代目の帰朝」

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◆2015年6月
「有頂天家族 二代目の帰朝」(幻冬舎)
森見登美彦

「有頂天家族」シリーズの二作目です。
狸たちが師と仰ぐ、天狗の赤玉先生の二代目が帰国したことを発端に起こる、狸界の騒動を描いています。
面白いといえば面白いのですが、一体どこがと言われるとうまく説明することができません。あれれ、どこが面白かったんだっけ?

一つは、登場する狸一匹一匹のあまりの人間臭さ。欲深だったり無鉄砲だったり堅物だったりと個性豊か。しかも何かというと旦那衆ぽい寄合や派閥争いまであって、いろんなバランスの上に成り立っている狸社会は、人間社会と同じく大変そうです。
もう一つは、舞台となっている京都という街の特性でしょうか。
人間と狸が互いにうまく暮らしている、そして北白川の下宿に年老いた天狗が住んでても、狸が人間に化けて繁華街を歩いていても、そんなに不思議ではなさそうな街。
勝手なイメージで語って京都の人には申し訳ないけど。

今日は6月30日、夏越の祓。写真はとらやの「水無月」です。
(2015年-21冊目)

「春信一番 写楽二番 フィラデルフィア美術館浮世絵名品展」

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○2015年6月27日
「春信一番 写楽二番 フィラデルフィア美術館浮世絵名品展」(三井記念美術館)

明和2年(1765)、浮世絵師・鈴木春信らにより多色摺木版画の錦絵が生み出されて、今年で250年なんだそうです。その始まりは江戸の風流人たちによる「絵暦」の交換会だったとか。
米フィラデルフィア美術館所蔵の浮世絵展が、三井記念美術館で行われています。

墨摺や筆で彩色した時代から春信らによる錦絵の誕生、清長や歌麿、写楽らによる美人画・芝居絵、さらに北斎や広重の風景画と、浮世絵版画の流れを追う展示になっています。
順番に見ていくと、時代とともに表現方法や技術が進化していく感じがする、確かに!
今回春信一番と銘打ってるだけあって、状態のいい春信の風俗画や美人画を展示。写楽は、子供の頃図鑑で見て好きだった「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」など雲母摺の大首絵が6点。
面白かったのは初代豊国の「御殿の奥座敷」。カルタとかいろいろ遊んでいる女性たちの中で、真ん中の人が居眠りしながらネズミの大名行列の夢を見ている、という内容。なんかこれ、意味があるんだろうなあ。

展示室1では館所蔵の工芸品が展示。自在昆虫置物のうち、カブトムシやクワガタにしびれました。まさに超絶技巧!手のひらに乗せて眺めたいです。

ミュージカル「エリザベート」

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●2015年6月25日夜公演
ミュージカル「エリザベート」(帝国劇場)
出演:花總まり 井上芳雄 佐藤隆紀 京本大我 未来優希 剣幸 尾上松也ほか

帝国劇場のミュージカル「エリザベート」を観ました。
何年も前からず~っと待ち続けてきた花總シシィ。宝塚退団から数えてもう9年にもなるのですね。
最近は「エリザベート・ガラコンサート」に出たり、「レディ・ベス」「モーツァルト!」で帝劇の舞台に立ったりもしていたので、いつかは、と期待していました。
この日初めて観た東宝版での花總シシィ、輝くような美しさと気品があって、期待通りでした。

この日のキャストは、花總シシィ、井上トート、佐藤フランツ、ルキーニは尾上松也という組合せ。
キャストだけではなく演出も大幅に変わっていて、その辺りが渾然一体となって、以前とはかなり違う印象になりました。
これまでの東宝版は、全ての運命を司る絶対的な存在であるトート(何といっても山口祐一郎さんのイメージ!)と、それに抗うエリザベート(こちらは一路かな、やっぱり)、という構図で描かれていたような気がします。
新演出版では、シシィとトートは表裏一体、シシィの中で死への憧れが強くなるとトートが現れ、生への執着が強くなると遠ざかる。トートはもちろん、物理的な死を表してはいるんですけど、シシィの心の影でもあるような気がするんです。
この日は井上トートでしたが、怖いだけではなく時に優しそうに見えたり、黒だったり白だったり、シシィの潜在意識の「死」のイメージが投影されていると見ることもできます。

幕開きの「パパみたいに」の場面から、花總シシィは全然違和感ありません。
バートイシュルで、シシィの帽子とドレスが絡まってしまうハプニングがありましたが、慌てず騒がず少女らしい仕草でほどいてしまっていました。フランツが思わずシシィを選んでしまうのが説得力ありました。
花總シシィは舞台の進行とともに年齢を重ねていくのが自然です。加えて特徴的なのは、後半、どんどん孤独に閉じこもっていく演技でしょうか。
少女時代からの自由への渇望が宮廷の雁字搦めの生活によって潰えてしまう、そして結果彼女は、全てを拒絶していってしまう、という流れがよく納得できました。「夜のボート」での絶望感の表現は、花總シシィならではだと思います。
井上芳雄のトートは、最初キャスティングを聞いたときは軽すぎるんでは、と心配しましたが、さすが長くこの作品に出ているだけあって、すんなり場に馴染んでいました。これから新しいトート像を作っていって欲しいと思います。
佐藤フランツが歌が上手く、期待以上に良かったです。ルドルフの葬儀の場面で傷ましそうにシシィを見る表情に、愛が感じられました。
松也ルキーニは声が高くて聴きにくい点もありましたが、この長い物語を語り手としてちゃんと回していったところは立派。ルキーニは他のキャストから浮いてるぐらいがいいと思うのですが、そういう意味で存在感はありました。
そのほか、剣幸さんのゾフィー皇太后が厳しいだけではない威厳があって素敵でした。
ラストの場面、これまでのエリザベートでは、皇后自身が死を望んだといいながらも、どこかトートに負けた感があってモヤモヤしたものでしたが、今回の新キャスト・新演出で初めて、シシィは死によってようやく自由を得たのだなと腑に落ちました。
花總シシィの表情がとても素敵で、長いシシィの人生の旅路をともに辿ったような気持ちになりました。

この日は貸切公演だったので、カーテンコールの後、井上芳雄と花總まりの挨拶がありました。
井上芳雄が「私事ですが」と前置きして「エリザベートに出演して今日で300回になりました。そのうち290回ぐらいはルドルフですが…」会場は大拍手。花總さんは全然聞かされてなかったらしく、びっくりして一緒に拍手していました。
井上が「花總さんは300回超えました?」とふると、花總「えっ、ちょっ、わかっ…」と詰まってしまったのがツボでした。
このあと花總「プレビューから早いもので、もう2週間。これからも一生懸命努めていくので、イープラス様とエリザベートを宜しくお願いします」みたいなことを、にこにこしながら挨拶していました。
新生エリザベート、とくに花總シシィは待望のキャストだっただけに、観ていて感慨もひとしおでした。これからも長くこの役を演じていって欲しいと思います。

ミュージカル「アラジン」

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●2015年6月23日夜公演
ミュージカル「アラジン」(劇団四季,電通四季劇場)
出演:瀧山久志 島村幸大 岡本瑞恵 牧野公昭 酒井良太 萩原隆匡 斎藤洋一郎 白瀬英典 増田守人 永野亮比己 井上佳奈 加藤久美子ほか

劇団四季のミュージカル「アラジン」を観ました。
アニメ映画のイメージが余りに強いので、「人間がジーニーを演じるなんて無理無理!」と思っていたのですが、いざ目の前にしてみると、全然違和感なし。それどころか、もうジーニーとしか思えないんですけど!瀧山久志さん、すごい!!

子供から大人まで多くのファンをもつ作品の舞台化とあって、とにかく一度は観てみたいと思ってました。
ストーリーはアニメとほぼ同じ。異なるところといえば、アニメにはなかった三人の友達との友情が強調されているぐらいかな。
これまでに四季が手がけた他のディズニー作品同様、歌とダンスが大きな見どころです。アラジン役の島村幸大、ジャスミン役の岡本瑞恵ほか、キャストもハイレベルでした。
加えて今回は、イリュージョン的な魔法の仕掛けと、ジーニーのしゃべりの面白さが際立っています。
まず、驚きの仕掛けが満載の魔法表現。二幕の「新しい世界(ア・ホール・ニュー・ワールド)」のドラマチックな飛行場面では、周りからため息と驚きの声が半々に聞こえてきました。「リトルマーメイド」の時にも驚いたけれど、極限まで表現を追求していて、すごいです。
ジーニーを演じる瀧山さんは、いい声である上に、しゃべりのテンポ、顔の表情、コミカルな演技と、まさに入魂の役作り。ジーニーのあのとぼけた味わいを出すのって相当難しいと思うんだけど。
ジーニーがダンサーたちを率いて踊る一幕後半、洞窟でのショーは、ショーストップで盛り上がりました。

アラジンの仲間たち3人組(萩原・斎藤・白瀬)が、それぞれの個性でいい味を出しています。彼らがいることで、アラジンが友達思いのいい奴だと分かります。
忘れてならない悪役ジャファーは牧野公昭。アニメから出てきたような堂々、そして朗々とした悪役ぶり。アニメではオウムだった部下イアーゴの、とげがあるけど間抜けで憎めないキャラクターもとても面白いです。ジーニーといい、イアーゴといい、日本語セリフの妙が生きています。
クライマックスの、アラジンの二者択一の場面では感動しました。
終演後のカーテンコールは客席総立ちのスタオベ。笑って泣けて、楽しい気持ちで家に帰れる、ディズニーのまさに王道的作品。ショーアップされた舞台はとても洗練されていて、誰もを魅了するミュージカルだと感じました。

「森は知っている」

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◆2015年6月20日
「森は知っている」(幻冬舎)
吉田修一

前作「太陽は動かない」の登場人物・鷹野の少年時代を描く長編。
沖縄・南蘭島。17歳の鷹野は同じ境遇の少年・柳とともに、AN通信の教育係・徳永のもとで諜報訓練を受けながら、この島の高校に通っています。美しい島の自然と、転校生・詩織との出会い。
ある時鷹野は、先に島を出た柳が組織を裏切り、姿を消したことを聞かされます。

「太陽は動かない」感想→http://senryokagan.blog.jp/archives/1009979433.html

コンゲーム的国際謀略サスペンスの前作。本作はその前日譚ですが、青春物語的側面もあります。私は前作の内容をかなり忘れていましたが、むしろ先が分からず良かったです。こっちから読む方がオススメかも。
詳述は避けますが、鷹野は幼少期に親に虐待を受けた過去を持っています。
作品では、かつてその一瞬一瞬しか生きられなかった鷹野が、周囲の言葉や気遣いによって、未来へ向けて生きる力を徐々にですが、手に入れていく様子を描いています。
とはいっても鷹野の将来に待つのは普通の生活ではなく、常時組織によって酷使され、監視され、生死の境に身を置く産業スパイの仕事。それが嫌なら、戸籍もなく抹消された人生をひっそりと生きるしかない。まだ少年である彼に、これ以外の選択肢が存在しないことが悲しいです。
こんな状況の中でも、鷹野の毎日は続いていきます。

人は何のために生きるのか?
理不尽で、不合理に満ちたこの世界。でもその片隅に、きれいなものや美しいものが少しだけ存在している。誰かが誰かを気にかけたり、その人のために身を擲って行動したりすることで、人はその日の苦しみに耐えられるのではないか?
一日一日を生きてさえいれば、それは明日につながっていく。
がんじがらめに見える鷹野の人生に、著者はかすかな希望を描き出します。
島の奥にある青龍瀑布に、詩織と共に出掛けるくだり。滝を見ながら問い掛ける鷹野と、これに応える詩織の会話が心に残ります。
「ここよりももっと良い場所、あるよな?」
「あるよ、いっぱい。私たちが知らないだけで」
この物語の中で、明るい未来を想像させる数少ない場面。二人の上に一条の光が差し掛けられたように感じました。
(2015年-20冊目)☆☆☆☆

「山月庵茶会記」

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◆2015年6月15日
「山月庵茶会記」(講談社)
葉室麟

茶の湯を題材として、人の生き方を描いた小説。これまでに読んだ著者の作品の中でも、一、二を争う佳作と思います。
かつて藩内の派閥争いに敗れ、養子に家督を譲って藩を去った柏木靫負が、故郷の豊後黒島藩に戻ってきます。
十六年前、江戸赴任中に妻の藤尾に不義密通の噂が立ち、靫負に問い詰められて自害した一件で、事の真相を明らかにしようというのがその目的。
ざわめく周囲をよそに、靫負は当時の関係者一人一人を茶席に招きます。

「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる」と、気配ばかりで闇の中にあった藤尾の死の経緯が少しずつ明るみに出て行くのが、ミステリーのように描かれていきます。
真実に近付くにつれ深まっていく靫負の悔恨と苦悩。一方、茶室の内で徐々に実体化し、輪郭をとっていく藤尾の面影。茶室という閉ざされた異空間で、現実と非現実の境が朧になっていく描写は能を思わせます。艶な情感と幽玄の趣が漂います。

本作で印象的なのは、やはり茶の湯に関わる部分です。
七夜茶の場面で、掴めそうで掴めない茶の神髄が、回を重ねるうちに「茶を楽しむ心」として表れてくるのが興味深かったです。
初心者ながら私も茶道を習っていて、稽古の折などにふと楽しさを感じる瞬間があることに気付きます。自分の心の状態、座の雰囲気、その他いろんな条件がよい形で組み合わさった時なのだろうと思います。
茶会などで主客の心が通い合うことを「一座建立」といいますが、その前提となるのは相手を信頼し、慈しむ心。作中でも、旧友の又兵衛と靫負の信頼関係が茶会の場に一体感をもたらす場面がありました。靫負は、茶を点てる心を「相手に生きて欲しいと願う心」と説明します。茶道の一期一会の精神をよく表しているように思います。

物語は終盤すべての謎が解決され、収斂に向かいます。過去の真相を知った靫負が新たに息子夫婦に示す生き方は、まさに茶の心によって導き出された道。爽やかな読後感が広がりました。
(2015年-19冊目)
☆☆☆☆

「ラプラスの魔女」

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◆2015年6月13日
「ラプラスの魔女」(KADOKAWA)
東野圭吾

本作の宣伝用コピーは「彼女は計算して奇跡を起こす」「小説の常識をくつがえして挑んだ空想科学ミステリ!」。読む前から大体の内容が予想でき、あれこれトリックについて悩まずにすみました。
最近の東野作品は、トリックよりも、ますます人間ドラマ重視の方向にシフトしてきているように思えます。
(内容のネタバレあります。ご注意願います)

発端は、距離の離れた二つの温泉地で別々に起こった硫化水素による死亡事故。大学教授・青江は、両方の現場で円華(まどか)という若い娘と出会い、引っかかりを覚えます。
帰京後二つの事故をつなぐ、ある人物の存在に気付いたことから、青江は事件に関わってしまうことに…。

物語はこの青江と、すべての謎の原点である円華サイド両面から描かれていきます。
円華らの能力については頁を費やしていろいろ説明されていますが、ひとことでいうとESP能力のようなもの。でも、そこは東野圭吾なので脳科学的な設定に見えるようにしてはあるし、その能力にもキャップを被せてはありますが…。
事件の全貌が解明されていく過程や、隠された過去の事件が現在につながっていくところは、さすが東野作品、十分読み応えがあるのですが、心震えるような感動というのは残念ながらありません。「容疑者x」や「白夜行」の著者には高い水準をどうしても求めてしまいます。
一つには、やっぱり設定とのギャップというのもあるかなあと思います。これがありなんだったら、なんだって特殊能力で解決できるようにすればいいじゃん、とか考えてしまうんですよね。これが腑に落ちる設定だったら、もっと面白く感じられたかも。
「一人一人の凡庸な人間の営みにも、ちゃんと意味はある」というメッセージは、やや取って付けたような感じはありますが、著者らしいと思いました。
いつかは映像化もされるのでしょう。いろんな方面に発展していけそうな作品だと思います。
(2015年-16冊目)
☆☆

泉屋博古館「フランス絵画の贈り物」

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○2015年6月
「フランス絵画の贈り物 とっておいた名画」(泉屋博古館)

住友家の須磨別邸などに飾られていたフランス絵画のコレクション。副題は「とっておいた名画」。
ん?「とっておきの名画」じゃなくて?でも住友家で大事にとっておいた感じは伝わりますね。

住友家15代春翠は、仏留学中だった画家、鹿子木孟郎に資金援助をする代わり、フランス絵画を何点か購入してくれるよう頼みます。それに応えて、鹿子木からはローランスの絵などが送られてきます。
春翠は、自らも渡仏した際モネの絵を購入。お馴染みの「モンソー公園」「サン=シメオン農場の道」は、日本に入ってきた最初期のモネ作品だと知りました。
今展では、モネのほか、印象派、ヴラマンクらのフォーヴィスム、ルオー、ピカソ、シャガールらの作品が並んでいます。
展示作品のなかでは、何といってもミレーの「古い垣根」が印象に残りました。
ミレーというと農村画家のイメージですが、この絵はまるで象徴主義のよう。薄明かりの森林をバックに一頭の鹿が佇み、足元には壊れた垣根。この絵だけでも見に行ったかいがありました。
これらはいわば、個人の好みで集められた住友家のプライベート絵画。作者不詳ながら長く壁に架けられてきた作品を集めた「無印良画」コーナーも面白いと思いました。

「春雷」

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◆2015年6月8日
「春雷」(祥伝社)
葉室麟

「蜩ノ記」「潮鳴り」に続く羽根藩ものの第3弾。
武士として生きること、死ぬことの意味を問いかけてくる本シリーズ。「春雷」は春先に寒冷前線通過とともに起こる雷で、春の訪れを告げる意味もあるそうです。著者のタイトルに込めた思いが伝わるような気がします。

15年前に羽根藩に仕官し、藩主・兼清によって重職に取り立てられた多聞隼人は、農民から厳しく年貢を搾取、反抗する者は入牢させるなどの改革を断行し、領民から「鬼隼人」と呼ばれています。
あるとき彼に、新田開発のための沼干拓の命が下ります。農民を酷使して肥え太った「人食い」こと大庄屋・七右衛門、酒乱により人を斬り牢に入れられていた「大蛇」こと臥雲とともに作事に取り掛かる隼人。その裏では様々な策謀が…。

これまでに私が読んだどの葉室作品よりも、シビアな内容でした。
「何事かをなすために自ら積極的に動かないのは、何もしないのと同じ」ということを、本作は突き詰めていきます。
でも、もしその相手が上役だったら?普通は長いものに巻かれてしまうところですが、本作の主人公は、たとえ周囲に「鬼」と呼ばれても、命を懸けた主張を展開します。
結局、隼人がなそうとしたことは何だったのか?その背景は後半徐々に明らかになりますが、余りの救いのなさに暗澹とした気持ちになりました。
上意下達の封建社会と個の武士道が対立した場合、正義を貫くにはどうすべきなのだろうか。本作の主題には、藤沢周平の「隠し剣シリーズ」などとも共通する部分があるように思います。(2015年-15冊目)

宝塚花組公演「カリスタの海に抱かれて」

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●2015年6月6日
宝塚花組公演
ミュージカル「カリスタの海に抱かれて」
レヴューロマン「宝塚幻想曲」(東京宝塚劇場)
出演:明日海りお 花乃まりあ 瀬戸かずや 鳳真由 芹香斗亜 桜咲彩花 柚香光 城妃美怜ほか (専科)美穂圭子

東京宝塚劇場で花組公演を観ました。
ミュージカル「カリスタの海に抱かれて」は、友情、恋、独立戦争と、宝塚王道的要素を惜しみなくちりばめた作品。無駄のないストーリーに響き合うエピソード、セリフの説得力。さすが大石静脚本です!
舞台は地中海に浮かぶ島カリスタ。フランスで育ったカルロは、故郷であるこの島に司令官として赴任します。実はカルロの本当の狙いは、フランス国内の革命の混乱に乗じて島の独立を手助けすることでした。
幼馴染みであるレジスタンスのリーダー・ロベルトとの再会をきっかけに、島の若者たちの信頼を得ていくカルロ。しかしロベルトの許婚アリシアとの間に恋が芽生えてしまいます。

明日海りおのカルロは「あたしのこと好きなんだろ」と迫るアリシアに対し、最初あっさり友情の方をとっちゃうんですよね。この辺の人物造形と芝居運びに深みがありました。花乃まりあのアリシアは、率直さの半面、終始ドレスにこだわってたりというエピソードが効いています。
芹香斗亜のロベルトは、一本気で男っぽいけど、なかなかアリシアにも強く出られず、というシャイなところが素敵です。アリシアから袖にされる場面はちょっと可哀想(笑)。クライマックスでは、アリシアを奪ったカルロを憎んでるように見せて実は…というところが重要なのですが、私は始めそこが理解できず、残念でした。
そういえば、天真演じるカリスタ守備隊長が、カルロの武器横流しを「奴らを拷問して吐かせました」とか言ってましたが、ロベルトたちの方では全然それに気付いてないっぽいのが不思議。
瀬戸かずやのセルジオは、ああ、こういう人、どこにもいるよね、と観る者を納得させる芝居。柚香光のナポレオンは大物感があります。鳳月杏の副官ベルトラムは好感持てる役。美穂圭子が演じるアニータの恨み節がとにかく凄くて、この方にしか出せない味でした。(ラストで「ワン・デイ・モア」みたいになってるのはご愛嬌)。

ショーは稲葉大地作「宝塚幻想曲」。台湾公演が意識されてるためか、日本テイストが前面に出ています。和風というよりジャポニスム。蒔絵とかを思わせるセットなんかもあり。
とにかくスピード感があって、歌とダンスが次へ次へと流れていく感じです。「摩天楼」のパープルの群舞、「さくら」モチーフのダンスが印象に残りました。
今回は花組新トップコンビ明日海りお、花乃まりあのお披露目公演。終演後、明日海の挨拶がありました。新生花組の今後に期待したいです。

「着想のマエストロ 乾山見参!」展

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○2015年6月
「着想のマエストロ 乾山見参!」(サントリー美術館)

「乾山見参!」展を見ました。今回二度目に見ると、前回より味わい深く感じました。
また、ここの美術館はとても居心地がいいし、私は好きです。時間があったので、ゆっくり気持ちよく見られました。

「着想のマエストロ」という副題がついていますが、乾山作品のいろんな側面を見ることができます。
最初に展示されてる「銹絵山水図四方鉢」が素敵でした。器というよりも、このまま一幅の絵として存在しています。
今展では、雪舟「摘星楼図」も展示されていますが、乾山が伝統的な水墨画の山水図を工芸として再構成しているところに並々ならぬ手腕を感じました。

今回コーナーとして特集されている蓋物。どれも角がなく丸みを帯びた形です。金・黒・白の組合せなのが面白いです。
これらは籠や漆器からの着想だそうです。なるほど。ところで、やはり漆器などから意匠を得ていたらしい仁清のきっちりしたイメージに対し、乾山のは余情と素朴さを兼ね備えた感じですね。仁清や乾山のこういう展開も京焼的発想なのかも知れません。

このほか、ヨーロッパの焼物をアレンジした「色絵阿蘭陀写花卉文八角向付」や、「夕顔図黒茶碗」を見ました。後者には「よりてだに露の光りやいかにとも思ひもわかぬ花の夕がほ」の和歌が書かれています。
乾山以外では、仁清のキューブ型の「褐釉四方茶入」や志野・織部の力強い平鉢などが印象に残りました。
久々に館蔵の「洛中洛外図屏風」も見ました。右隻には八坂神社や清水寺、中央に二条城が描かれてる左隻には銀閣寺らしき建物、その向こうには山々が。見ていて飽きないです。

「モダン」

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◆2015年5月30日
「モダン」(文藝春秋)
原田マハ

MoMA(ニューヨーク近代美術館)とそこに関わる人々を題材にした連作短編集。

この本は「アートとは何か」ということを、読者に問いかけてきます。
MoMAの監視員スコットの仕事は、毎日開館から閉館まで来館者を注意深くチェックすること。彼はピカソの絵を横目に考えます。「なんでまた、あんたはアートをぶっ壊しちゃったんだよ、ピカソ?」
スコットにとって、とくに現代アートは「なんだかよくわからないもの」。そればかりかここでは、工業デザインや機械の部品までが芸術作品として扱われてきました。
ある日の閉館間際、ピカソの作品の前に佇んでいた青年が、突然スコットに問いかけます。
「どう思いますか?この作品」。

芸術とは作品それ自体ではなく、それを観る鑑賞者の視点があって初めて成立するもの、ということを本書は示唆しているように思えます。
全5編のうち、「中断された展覧会の記憶」が一番印象に残りました。2011年春、MoMAの女性職員が、ふくしま近代美術館に貸し出していたワイエスの作品を引き取りにいく話です。
一つの作品によって、観るもの同士が、互いの立場や文化を超えて言わず語らず共有できる何かがあるんじゃないか?本書の各エピソードは、そのことを語りかけてくるようです。

写真は、サロン・ド・テ遊形のショコラムースです。
(2015年-15冊目)☆☆☆
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