千両過眼

東京在住の会社員です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

2015年12月

2015年の読書

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◆2015年12月31日
「2015年の読書」

いよいよ2015年も終わろうとしています。
今年、私的に印象に残った本は以下の通りでした。

「鍵の掛かった男」(有栖川有栖)
結構長い作品ですが、途中飽きることもなく読まされました。
最近の作品は、登場人物、謎解き、文章がばらばらの方向を向いている印象でしたが、本作では見事にこれらが調和しています。私的には今年のナンバーワンはこれです。

「ナオミとカナコ」(奥田英朗)
ほぼ一年前に読みましたが、いまでも記憶に鮮烈です。前半の百貨店の客との駆け引きから始まって、ページをめくるのがこれほど楽しみだった作品はなかなかないかも。最後の追いつ追われつの展開まで一気でした。

「犯人に告ぐ2 闇の蜃気楼」(雫井脩介)
やっと出たヒット作の続編。巻島の活躍だけでなく、犯人グループ対警察の総力戦といった感じが伝わりました。この続きも是非読みたいです。

「森は知っている」(吉田修一)
「太陽は動かない」の登場人物、鷹野の少年時代を描く前日譚。切ない青春物語。滝の場面が印象に残りました。これもシリーズ化でしょうか。

「山月庵茶会記」(葉室麟)
茶の湯の精神性、能楽的幽玄、これに武士の生き方という、いつものテーマを組み合わせた意欲作。一方、最近読んだ「草雲雀」も良かったです。

これ以外では、「異邦人」(原田マハ)、「王とサーカス」(米澤穂信)、「新しい十五匹のネズミのフライ」(島田荘司)などが印象に残りました。あとは、白洲正子さんの本が何点か。
2016年が良い年になりますようお祈りいたします。

「モナドの領域」

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◆2015年12月25日
「モナドの領域」(新潮社)
筒井康隆

美大生アルバイトが作った奇怪な形のパン。ある事件との関連を調べるためにベーカリーに向かう上代警部。
この辺り、シュールレアリスム的。ここで警部が常連客である老教授を目にしたところから、急展開に。

筒井康隆の新刊は、これまでに読んだことがないような小説でした。
GODと名乗る謎の人物(?)が登場し、公園で、裁判で、テレビの番組でいろんな質問に答える、その問答が話の核になっています。
GODは宗教上の神ではなく、モナドを司る存在。モナドとは、予定運命、みたいなものでしょうか(正確に理解できてないかも知れませんが)。

にも関わらず、小説として面白かったのはGODに向けられる人間の感情の部分です。こういう存在と出会ったとき、人はどうするのか?
「時をかける少女」のイメージが投影された場面があり、印象的でした。
(2015年51冊目)

メリークリスマス

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◇2015年12月25日
「メリークリスマス」

今日はクリスマスです。
世界中の人たちの上に神様のみ恵みがありますように!!

写真は、ペニンシュラのツリーです。

「英国の夢 ラファエル前派展」

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○2015年12月23日
「英国の夢 ラファエル前派展」(Bunkamuraザ・ミュージアム)

ラファエル前派や唯美主義など、19世紀半ばから20世紀初頭にかけての英国絵画の流れを紹介する展覧会。
ちょうど同じ頃、大陸では印象主義なんかが流行っていた訳ですが、それとは全然違っていて、でも美しい。
たとえばモネの絵が美しい、というのと、ミレイやロセッティの絵が美しい、と言うのとは、どこが違っているのだろうか?そういうことも考えさせられました。

どの絵もロマンチックで甘美、そして劇的です。
ダニエル・マクリース「祈りの後のマデライン」。就寝前に髪をとく女性、何かが起こりそうな予感。キーツの詩が元になっているそうですが、絵の続きが気になります。
ミレイ「ブラック・ブランズウィッカーズの兵士」は軍人と恋人の別れの場面(女性のモデルはディケンズの娘でのちのペルジーニ夫人)。軍服とドレスの質感がすごい!壁には有名なアルプス越えの絵が掛かっていて、対ナポレオンの戦争ですよ、と明示されている(現実にはここにこの肖像というのは不思議な感じがしますが)。
ペルジーニの「シャクヤクの花」は衣服のしわまでが美しく、雅歌4章を主題としたバーン=ジョーンズの「レバノンの花嫁」は、装飾的で緊密な構成が屏風絵みたいです。

印象派などと違い、どれも人為的に作り込まれた絵で、見たままの人間や自然、大気や光、時間の流れや社会のありようといったものを描かず、文学や物語、さらに進めて、ただただ夢幻的な世界を描こうとしているように見えます。
ある種の不自然さを感じさせながらも美的感覚に訴えてきて、見ていると引き込まれるようです。
リアリズムとは次元の異なるこれらの絵画が生まれたのが、ヴィクトリア朝という、まさに英国の黄金時代だったということが面白いと思います。

「水 神秘のかたち」

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○2015年12月20日
「水 神秘のかたち」(サントリー美術館)

全ての生物を育み、農作物を育てる水。しかし一方で、水難や水害をもたらす存在でもあり、古来より信仰と畏怖の対象となってきたもの。
サントリー美術館の「水 神秘のかたち」展では、このような自然崇拝が宗教と結び付き、今もさまざまな形で我々の心に生きていることを教えてくれます。

今展のポスターにもなっている大和絵屏風「日月山水図」は、日輪と月を頭上に頂く四季の山(右隻右側から春、夏、左隻右側から冬、秋)、周りに水流が描かれています。人との関係における花鳥風月ではなく、ありのままの自然が。
保存状態がいいためか緑や雪山の色が鮮やかで、ただの風景画というより自然が流転しながら連環していくパワーそのものが感じられました。儀式に使われたものらしいと解説にあり、なるほどと頷けました。
弁財天や海神の信仰、さらに龍神信仰にまつわる資料が多く展示されていました。
河川や降雨、雷が龍神と結び付くのは、いろんな意味で腑に落ちますが、祈雨(雨乞い)の図面やお経もあって、いかに雨祈願が切実だったかが分かります。
定智作、高野山の「善女龍王像」が何といっても迫力でした。弘法大師が神泉苑で雨乞いの修法を行った時に、インドから善女龍王を呼び寄せ、雨を降らせたそうです。
龍王に相応しく、中国の服を着た堂々とした押し出しで、裾から龍のしっぽが覗いています。

秋に熊野に旅行したとき、水が人間とすぐ近い場所に存在していることを感じました。
今展でも「西行物語絵巻」で西行が那智瀧に詣でる場面が展示されていますが、那智瀧は自然信仰と仏教、神道が合わさった場所。熊野灘には補陀落渡海の信仰もあります。
車で熊野三山への道を辿る時、付かず離れずという感じで傍らを清流が流れていました(有名な瀞峡も通りました)。熊野本宮大社は明治まで川の中洲にあったということですが、熊野では山と水の信仰が一体となっているように思え、まさに日月山水図の世界のようだったなあと思い出しました。

この日はサントリー美術館で弦楽四重奏のコンサートがありました。賛美歌やクリスマスソングのメドレーも聴けて、年末のひととき楽しい時間を過ごしました。

「物語をえがくー王朝文学からお伽草子までー」

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○2015年12月19日
「物語をえがくー王朝文学からお伽草子までー」(根津美術館)

伊勢物語や源氏物語などの場面を描いた物語絵は、古くから絵巻や色紙、屏風や扇面などの形で親しまれてきました。これらを集めた今展は、日本人がいかに物語や、そこに書かれた和歌と密接に付き合ってきたかを感じさせます。

須磨だな、とか河内越だな、と見る人が当然分かることを前提にこれらは描かれてるのだろうし、ついには一部を取り出して、燕子花=東下りというような連想ゲームのようなことまで成立してしまいます。
一定の約束事のもとに行われているとしても、何とイマジネーションの豊かなこと!こういう文学と意匠の関係が作り手と受け手の間で共有されてきたのが、いかにも日本的だと思います。

伊勢、源氏、曾我物語と見ていって、「西行物語絵巻」。出家しようとする佐藤義清が幼い娘を縁から蹴落とす場面や、熊野の八上王子に歌を書き付ける場面。
実在の人物の事跡を物語化し、絵巻としたものが流布されることで伝説が出来ていく、ということが何となく理解できます。
「賢覚草紙絵巻」なるものを初めて見ました。三井寺の僧賢覚は修行の妨げにならんと、将来自分と結ばれるべき長者の娘を刺してしまいます。11年後、賢覚は清水に参詣に来ていた若い娘を見初めるも、それは一命を取り留めた長者の娘でした。
娘を振り切り、日高川を舟で逃げる賢覚。追いすがる娘は何と大蛇に変身。ついに古寺の鐘に逃げ込んだ賢覚に追い付き…というお話。
もちろんこれはあの道成寺、安珍清姫伝説のバージョン違い。一方似た話で「華厳宗祖師絵伝」がありますが、義湘に恋し、海中に身を投じた娘善妙は龍に変じて、義湘の舟を守ります。似ていても結末が全然違うのが不思議です。
下の写真は、通りすがりのバスから撮った日高川。 6a0684a3.jpg

二階の展示室では「扇面歌意画巻」が展示。和歌の内容を絵で表現したこちらは「歌絵」。いろいろと興味深い展覧会でした。

「草雲雀」

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◆2015年12月16日
「草雲雀」(実業之日本社)
葉室麟

「りり、りり、りり…」とつつましく鳴く秋の虫。妻みつとの暮らしを籠の中の草雲雀の境遇に重ね合わせる主人公・栗屋清吾。
草雲雀とは、小型のコオロギの仲間だそうです。葉室麟の新作には、不遇な武士が生きることへの哀感が漂います。

清吾は媛野藩の生まれ。三男であるため部屋住みの身分で肩身の狭い思いをしています。女中のみつを妻としますが、それすら家長の兄に認められず、家の片隅でひっそりと暮らす日々。
そこに降って湧いた、幼馴染み・山倉伊八郎が実は元家老の息子で、生家に戻って派閥を継ぐという話。
伊八郎に頼まれ、みつの「子をなしたい」という願いをかなえるため、清吾は伊八郎の用心棒をすることに。派閥間の争いに藩の影目付(隠密)まで加わり、清吾と伊八郎の身に危機が降りかかります。

この話はとにかく登場人物たちが魅力的。朴訥で少しぼんやりとしているが、秘剣「磯之波」の遣い手である清吾。ひたすら夫を信じて健気なみつ。身勝手で傍若無人に見えながら、芯が通っている伊八郎。とくに清吾と伊八郎の、ただの友情ではない関係が新しいです。
伊八郎が清吾を訪ねた折に「ご新造」と呼ばれたみつが喜ぶ場面など、いくつかいい場面がありました。
老獪な伊八郎の父・武左衛門や敵方の剣士・花田昇平、黒錘組の小萩ら、脇役の人物造形にも深みがあって、「螢草」などと同様、キャラクターが立つと時代物って本当に面白いなあと思いました。(そうそう、小萩からは藤沢周平の名作「用心棒日月抄」シリーズの佐知が思い出されたことも書き添えておきます。)

ささやかだが明日の幸せを願って戦う清吾を心から応援したくなりました。
(2015年-50冊目)
☆☆☆

「奇想の発見 ある美術史家の回想」

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2015年11月28日
「奇想の発見 ある美術史家の回想」(新潮社)
辻惟雄

「奇想の系譜」の著者、辻惟雄さんの自伝です。
美術展に行くと若冲はいつも大人気。私はそんなに好きではないのですが、サントリー美術館「若冲と蕪村展」でも、あんなに混んでたのはたぶん若冲のせい。
著者は、この若冲や岩佐又兵衛、曾我蕭白、狩野山雪といったエグい絵師たちを「奇想」というキーワードでくくり、新しい時代の命を与えた方。「若冲と蕪村展」を主催したMIHO MUSEUMの館長でもあります。
自伝ということで学問的功績を誇る内容かと思いきや、全然そんなことはなく、若冲らの「再発見」にまつわるくだりもサラリとしています。
さまざまな個人的エピソードから、本人のお人柄が伝わって来る本でした。
美術史家というお仕事が、学問的積み上げと、(偶然をガッチリ掴むことも含めた)ヒラメキの両方で成り立っていることに気付かされました。
(2015年-47冊目)

「陽気なギャングは三つ数えろ」

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◆2015年12月10日
「陽気なギャングは三つ数えろ」(祥伝社)
伊坂幸太郎

「陽気なギャング」シリーズ、9年ぶりの新作です!!
冷静沈着、相手の嘘を見破る成瀬、でまかせの演説で煙に巻く響野、完璧な体内時計で逃走タイミングを測る雪子、スリ名人、久遠。4人の活躍を描くクライム・サスペンス。

偶然、ある男を暴漢から救った久遠。しかし助けた相手は、他人のプライバシーを暴いて食い物にするハイエナ記者。次々と卑劣な手を繰り出してくる敵との戦い。
「銀行強盗を行う犯罪者たちを楽しそうに描いていいのだろうか」と著者は今更ながら悩んだということですが、たとえて言えば「ルパン三世」みたいなもので、むしろ勧善懲悪的な爽快ささえ覚えました。
伊坂作品ならではの会話の面白さも随所にあって、楽しませてもらいました。
(2015年-49冊目)
☆☆

「作家と一日」

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◆2015年12月6日
「作家と一日」(木楽舎)
吉田修一

恐らく人間の本能のようなものだと思いますが、飛行機に乗ると、しばらく気持ちがざわざわします。そのうち落ち着いてきて雑誌でも読もう、ということになりますが、そこで目に飛び込んでくるのがANA「翼の王国」の吉田修一のエッセイ。
機内誌なので、旅先での体験談とか風物、食べ物の話などが多いのですが、人物との素敵な出会いや著者が折々感じたことなどもあって、何事かに気付かされたり、ちょっと楽しい気持ちにさせられたりします。
この「ちょっと」というところがミソで、旅先に向かう緊張感や予定を抱えた身にヘビーな話や長く尾を引く話は勘弁なので、他の連載と合わせて読んで、心の片隅に気持ち良く余韻として残る、ぐらいの軽さと分量が、いかにもちょうどよく思えます。
本書はこの「翼の王国」の連載が単行本になったもの。著者はあとがきで「平和な国に暮らす作家が平和な国を飛び回って書いたエッセイ」「この今の状況がどれほど奇跡的な一日の連続なのかということを忘れないようにしたい」と書いています。
著者と読者が、このような日々の出来事を束の間共有できるのは、本当に幸せなことだと思います。
(2015年-48冊目)

「琳派の美ー光悦・宗達から抱一まで」

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○2015年12月5日
「琳派の美ー光悦・宗達から抱一まで」(MOA美術館)

週末に熱海に行きました。朝から澄み渡った青空で、海が綺麗に見えました。
MOA美術館では琳派展をやっていました。
琳派400年だとかで、今年はどこの美術館も琳派琳派でしたが、ここと根津美術館のコラボ企画、紅白梅図&燕子花図の競演は格別でした。
今展では「伊勢物語・西の対図」とか光琳の物語絵が並んでて、琳派は大和絵の画題を発展させていったんだなあと再認識しました。燕子花図を始め、琳派は物語や和歌を下敷きにしている意匠が多いです。

今年は宗達下絵に光悦が和歌を散らし書きしたのをあちこちで見ますが、ここでは展示室いっぱいに光悦の書いた和歌や漢詩が広げられています。最初こそ、鹿が金泥と墨(銀泥?)で描き分けられてるぞとか、料紙は刷られているのもあるな、とかいろいろ思いながら見ていたのですが、そのうち光悦の字の方が興味深く思えてきて。
時によって字に力が入ってるものもあれば、さほどでもないようなのもある。妙に字が太くなったり、墨がどんどん薄くなったり。もちろん人間だから気分や筆の調子でそういうこともあるんだろうけど…。
大体これ、どういう目的で書いてるんでしょうか。能書家だから人に頼まれた?単なる趣味じゃないよね?
ちなみにここの展示では、和歌や漢詩にちゃんと活字で全文が添えられていて(洛中洛外図屏風では、寺社名や地名も分かるようになっている。こんなのは私は初めて)、私にも読むことができました。とてもいい展示と思いました。

「樵夫蒔絵硯箱」を久々に見ました。帰宅してから調べてみると、謡曲「志賀」が下敷きだそうです。舟橋蒔絵硯箱が好きだけど、これも同じく餅のようにふくらんだ形が面白いです。
樋口五葉らの近代木版画がロマンチックでした。

「村上華岳ー京都画壇の画家たち」

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○2015年11月29日
「村上華岳-京都画壇の画家たち」(山種美術館)

「裸婦図」が重文指定されたことを記念して、村上華岳展が開催中です。
山種美術館の所蔵作品と、国画創作協会のメンバーほか同時期の京都画壇の画家たちの作品が展示されています。

「裸婦図」を見るのは何度目だろう、いわゆる美人画というのと違い、仏画に近い感じがします。
瓔珞のような装身具や蓮花、石窟を思わせる背景などから意図的にそうしているのは明らかですが、華岳が求める「久遠の女性」が菩薩に似た姿で表現されるのは興味深いことです。
「肉であると同時に霊であるもの、(中略)あらゆる諸徳を具えた調和の美しさ」という言葉からも、官能美と仏教的聖性を重ね合わせていたことがうかがえました。

いろんな作家の作品が並ぶ中で、桃を収穫する二人の若い娘を描いた、福田平八郎の「桃と女」に惹かれました。
木についたままの桃は袋掛けされていますが、娘の手にある桃は瑞々しく生っています。飾り気のない、働く娘たちの健康的な姿が印象的。
小野竹喬「沖の灯」は、明け方の海でしょうか。漁火が浮かぶ深い色の海の向こうに桃色の雲がたなびいている夢幻の情景。ひとときが永遠に凝縮したような絵。
ここでは3年ぶりという栖鳳のおなじみ「班猫」。猫の硬い毛と、軟らかい毛それぞれの触感や、瞬間の動きが感じられる傑作。
小野竹喬「晨朝」と田能村直入「百花」の絵はがきを買って帰りました。

下の写真は、以前「班猫」の絵はがきを見ながら自分で描いてみました。 63ad63be.jpg

「ジョルジュ・ルオー展」

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○2015年11月21日
「ジョルジュ・ルオー展 内なる光を求めて」(出光美術館)

出光美術館のルオー展を観ました。すべて館蔵作品による展覧会です。
スクレイパーという道具で絵具を削り取ることでできる特殊な絵肌、様々な色の絵具を厚く盛り上げて描くオートパート。水彩、油彩、銅版画に石版画。
道具や技法を駆使しながら、キリスト、道化師(サーカス)といった同一モチーフを、生涯かけて追い続けた画家。
「ミセレーレ」や「受難」連作は、聖書の場面をただ描いたというより、もっと根源的な何かを訴えかけてくる気がします。

別室で約30年前の「日曜美術館」のVTRが上映されていました。故・遠藤周作氏がルオーについて語っています。
「私たちと手をつないで共に歩んでくれる同伴者としてのイエス。ルオーの絵のキリストからは、母のような優しさが伝わってくる」というような話で、ルオーをよく表していると思いました。

後期の油彩画で、「秋の終りⅡ」「聖書の風景」が展示されています。
それまでの暗い色合いが一転、強烈な光が内からほとばしったような絵でした。ルオーが晩年近くに辿り着いたのが、この暖色の強い風景画であることに驚かされました。
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