千両過眼

東京在住の会社員です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

2016年10月

「手のひらの京」

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◆2016年10月21日
「手のひらの京」(新潮社)
綿矢りさ

京都に旅行すると、いつも気になっていることがありました。
ふと街中で聞こえてくる京都人同士の会話が、テレビや、旅行中に接する宿やお店の人の京言葉と微妙に違うことです。
私たちが知ってる方はもしかしたら「よそ行き」で、京都人だけになると、もっと別の言葉、別の価値観で過ごしてるんじゃないか、と思うようになりました。

私は京都人ではないので確かなことはいえませんが、この本に描かれてる京都は普段着に近い感じがします。
主人公は京都生まれの三人姉妹。長女綾香、次女羽依、三女凜。
彼女らの恋愛・就職問題に、植物園のバラの開花、祇園祭や大文字送り火といった季節の風物詩が織り込まれます。
出版社のコピーには「綿矢版細雪」とありますが、ストーリーといったストーリーもないまま、お話が進んでいくところ、成程似ているかも。
「京都人はほとんどの用事を市内で済ませてしまうので、隣の県でも遠出と感じる」とか、「祇園祭に誰と行くか7月初めごろから当たりを付けていて、一緒に行く人がいない人は大人しく家に引きこもる」とか、京都人の習性がさりげなく挟み込まれます。

凜が就職先として東京の会社を選択。京都を離れることに反対する家族に、その理由を明かす凜。
「内へ内へとパワーが向かっていって、盆地に住んでる人たちをやさしいバリアで覆って離さない気がしてるねん」
「ちょっと出て行けても『そろそろ帰ってき』っていうメッセージを乗せた不思議な優しい風が京都方面から吹いてきて、ハッと気が付いたら舞い戻ってる予感がする」(作中より)
強力な磁力で人を離さない土地への思いは、ほとんど信仰的といっていいような気がします。
単なる郷土愛だけでない、昔からつながってきたもの。それは、私たち通りすがりの観光客が感じる日本情緒とは、また違うものだと思います。
(2016年47冊目)☆☆

「ミス・サイゴン」

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●2016年10月25日
「ミス・サイゴン」(帝国劇場)
出演:市村正親 笹本玲奈 上野哲也 上原理生 三森千愛 藤岡正明 中野加奈子 前田武蔵

初めて「ミス・サイゴン」を観ました。
感想をひとことで言うと「なんて嫌な話なんだ!」です。見終わってしばらく気分が落ち込みました。
「レ・ミゼラブル」と違い、この話には救いがありません。
国土が他国に蹂躙されたり、政治に翻弄されて個人の幸せが奪われてしまう世界は現実に存在しており、これからもこの種の理不尽は存在し続けるでしょう。
このことに目を向けることは確かに必要かも知れないけれど。

配役は、戦災孤児の娘キム役に笹本玲奈、米兵クリスに上野哲也、キャバレーの経営者エンジニアに市村正親。
笹本キムと上野クリスの恋愛話が熱演で哀しい。一方で、市村エンジニアは始め明る過ぎ?とも感じられました。
でも一日経ってみると、あのぐらいがちょうど良かったのかも、と思えるようになりました。
市村さんは空気を読まないわけでなく、むしろ客席の気持ちに寄り添って、ギリギリのところで舞台との間を仲介してたのかも。そういうところが名優たる所以なのかも知れません。
最後にタムを抱きしめている市村さんの姿が、悲劇の中でせめてもの救いだったと、後で思い返しました。

印象に残ったのは、演目の代名詞ともなっているヘリの場面。
これは舞台上の仕掛けとしてはすごかったです。機体が闇に消えて、直後に音と閃光が来て、機体が客席の上を通り過ぎていくのが分かりました。
爆音とともにやって来た鉄の塊が人々の間を引き裂く、というのが理屈でなく強烈なインパクトを残します。
もう一つはジョン役の上原理生が歌う「ブイ・ドイ」。歌声に真摯さが出ていたと思います。
背景で実写の映像を見せられることで、これは絵空事ではなく現実なのだ、と再認識させられました。

「鈴木其一 江戸琳派の旗手」

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○2016年10月23日
「鈴木其一 江戸琳派の旗手」3回目(サントリー美術館)

サントリー美術館の「其一展」。
今展の混雑具合がすごくて、最近とみに其一の人気上昇の気配を感じます。
ポスターになっている「朝顔図屏風」は、現代絵画にも通じそうなセンスです。

後半から「夏秋渓流図屏風」が登場しました。写真は右隻(部分)。
普通だったら、夏→青葉や夏草、秋→紅葉の対比で見せそうなところ、其一は生々しく白い百合や、散り残った桜葉で季節を表現します。
両端から手前にうねうねと流れ込んでくる真っ青な渓流。
よーく見ると、右隻と左隻の緑青の色が微妙に違ったり、木の幹に蝉がとまってたり。
私たちが過去に経験してきた日本的美しさじゃないですよね、これ。
非現実的で、ドラマで見る夢の場面みたいです。この屏風の前にいると、圧迫感さえ感じます。

お隣には「風神雷神図襖」。こちらは余白がたっぷりで、8面の襖の空間の広がりが生きています。
淡彩で描かれた風神雷神が、墨のにじみを生かした黒雲に乗っています。宗達光琳を瀟洒な水墨風にアレンジすることで、江戸風味が増した感じ。
小品では豪華な多色摺りの「小督局・源仲国図摺物」が目を引きました。ちょっと岡田嘉夫画伯ふうの人物描写。
人物ひとつとっても、大和絵、浮世絵風などいろいろに変えてくるのも其一らしいです。

「四季花鳥図屏風」は、胡粉を盛り上げる手法も使って、様々な四季の花々を表しています。
ほかのがアバンギャルドなだけに、これは琳派らしい、其一らしい絵。
でも考えてみると、其一らしさって何だろう?
師の画風を守るだけでなく、今様にいうと「攻めてる」絵師とも言われそうな其一ですが、私たちが考える江戸絵画のイメージから、ときに逸脱するような多様さが人気の秘密なのかな、と思います。

「禅 心を、かたちに」

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○2016年10月17日
「禅 心を、かたちに」(東京国立博物館)

東京国立博物館の特別展「禅」に行きました。
一般人に混じってお坊さんたちも観覧。今展はトーハクなどとともに「臨済宗黄檗宗連合」の主催なのです。
臨済宗・黄檗宗十五派本山の解説と開山の頂相や寺宝の展示があり、その並ぶさまは壮観。
といっても頂相に描かれる高僧の大半は知らない人なのですが、蘭渓道隆や隠元、夢窓疎石ら、教科書他で見知っている人も。

禅に関する展覧会で面白いのは、禅語や故事に関する資料ですね。
楽しみにしていた如拙「瓢鮎図」や雪舟「慧可断臂図」は会期途中からの展示で見られず残念。でも面白かったのは、大徳寺の開山・宗峰妙超(大燈国師)を描いた白隠「乞食大燈像」。
妙超が五条橋の下で「乞食行」をしていたところ、天皇の使者が探しに来たが探せなかった。
妙超がまくわ瓜が好物だったことから、乞食にまくわ瓜を振る舞うことにし、「脚なくして来たれ」と呼ばわったら、「手なくして渡せ」と叫んだので正体がばれた(手なしに瓜をひきやるなら、成程、足なしで参り申さふ)。

大徳寺や妙心寺の頂相と異なり、白隠の妙超はみすぼらしい身なりで、狷介そうにこっちを睨んでいます。
「やっ、しまった!」と表情が語ってるようで可笑しいです。
仙がいのさまざまな画賛もそうですが、公案や故事について、禅画は一見親しみやすく語るようで、でも難しい。
「禅とは、心の名前」と言われても…ね。

修整痕のある永徳筆「織田信長像」(永徳が信長三回忌で描いた肖像を、秀吉が地味に描き直しさせたと思われる)や、南禅寺では廊下から覗くことしかできない探幽筆の襖絵「水呑みの虎」などが、極近で見られました。
小川の水は繊細な大和絵ふうに描かれているのですが、それでもバランスが取れているところ、さすが探幽でした。

「マンマ・ミーア!」(2016年3回目)

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●2016年10月22日
「マンマ・ミーア!」2016年3回目(劇団四季,四季劇場<秋>)
出演:光川愛 谷原志音 高倉恵美 秋本みな子 阿久津陽一郎 堀米聰 脇坂真人 岸佳宏 原田麦子 若菜まりえ 廣野圭亮 山本道

千秋楽間近の「マンマ・ミーア!」を観ました。
キャストボードを見て、サム役が阿久津陽一郎になっていてびっくり。今公演はずっと田邊サムだと思っていました。
さて、その阿久津サム。
後ろ髪が伸びて、無精ひげも生えていて。以前はエリート建築家って感じだったのに、ちょっと癖のある人に。
演技もなんだか変わっていて、くどさが増している感じがする。
でも阿久津さんの「ハーイ」や「ドナなんて怖くないさ、あまりね」が最後に聞けて嬉しかったです。

今年の「マンマ・ミーア!」、観るたびに面白くなっていく感じでした。
光川ドナは年齢感もピッタリだし、日常に疲れているところや、過去の失恋を今も引きずっているところが表現されていました。
「勝者が全てを」はこれ以上の拒絶はないよね、という出来。
ソフィ役の谷原志音は、もともとソフィタイプですが、感情が前面に出て、初めの頃の硬さがなくなったように見えます。
酒を一気飲みして酔っ払うからか目が据わり、「ヴレヴ」で3人の父親候補に人が変わったように切り込んでいくのが凄みがありました。
これまでアリエルやグリンダを彼女で観ましたが、案外これが一番じゃないかと思いました。
高倉ターニャは初めの頃、もっと大人しくやってる感じだったのが、自由な雰囲気が出てきましたね。結婚式でぽーっとしているロージーをはたいたりして、案外苦労性なのが可愛い感じです。

この舞台は全編ABBAの歌で綴られていきますが、言葉がキーになって物語が展開していくのが面白いと思います。
たとえばサム、ビル、ハリーの3人がタベルナで対面して、各々21年ぶりに島を訪ねたことに不思議な共通点を見出すくだり。
またソフィの「父親なら一目会えばわかるはず」、サムの「自分の建物はわが子のようなものだからすぐわかる」というセリフがありながら会っても互いにわからず、でも最後には血のつながりより大事なものに気付く、というところ。
今日はカーテンコールが何度もありました。千秋楽は寂しいですが、「マンマ・ミーア!」楽しませてもらいました。

「日本美術と高島屋」

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○2016年10月16日
高島屋資料館所蔵「日本美術と高島屋~交流が育てた秘蔵コレクション~」(日本橋高島屋)
<特別展示>豊田家・飯田家寄贈品展

高島屋が他の百貨店と違うのは「文化を感じさせる」ところでしょうか。
たとえば毎日の開店前、イメージフラワーの薔薇の説明をしてくれたりするのもそう。
単にモノを売るだけでなくて、百貨店は「美しい生活」を提案するもの、そういうポリシーを感じさせるような気がするんです。

今展は高島屋の所蔵品、および創業家の飯田家と四代目の娘の嫁ぎ先である豊田家からの寄贈品を展示するもの。
並んでいる作品の作者は錚錚たる顔ぶれの大家ばかり。
栖鳳や雪佳が高島屋の刺繍や染織の下絵を描いていたことは有名ですが、それだけでなく、高島屋が横山大観を始めとした多くの画家たちと交流を重ねていたことが説明されています。

戦後初の大阪での院展を高島屋大阪店で開催した記念に大観が贈ったという巨大な「蓬莱山」が入口に。雲海や松原のかなたに富士を望む吉祥画。雪化粧の富士山が神秘的に光を発しています。
栖鳳の代表作の一つである「アレ夕立に」。
琳派を大胆でユーモラスにアレンジした冨田渓仙の「風神雷神」。
幸野楳嶺「紅葉渓図」や、岸竹堂「旭陽桐花鳳凰図」は彩色下絵と染織品が並んで展示されていて、その製品の方もすごい。ぼかしや水墨的表現、金雲表現が駆使されている。
川端龍子の「潮騒」も綴錦屏風の原画だけど、岬にぶつかる波濤にカモメの群れをワイドな大画面で展開した気持ちいい作品。

これだけ多くの作家が高島屋に関わっていることに驚きます。
単に美術展を開催するだけでなく、ゆかりの作家・作品とそのエピソードでこれだけの展覧会ができてしまう凄さ。
百貨店は、画家を後援するだけでなく、芸術家を消費者とつなぐ存在として機能していたのだなと感じました。

「月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ!」

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◆2016年10月13日
「月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ!」(集英社)
氷室冴子

この「ざ・ちぇんじ!」は平安朝に材をとったさまざまな小説の中でも、屈指の傑作なのではないでしょうか。
題材は「とりかへばや物語」。源氏物語や伊勢物語と違い馴染みの少ない作品を、現代の小説としてよみがえらせているのは、見事としかいいようがありません。

主人公は、時の左大臣家に生まれた、うりふたつの美貌を持つ異母姉弟。
男の格好をして育った活発な姉「綺羅」、女として育てられたおとなしい弟「綺羅姫」。
綺羅の際立つ貴公子ぶりを周囲は放っておかず、元服、出仕、昇進、結婚と、とんとん拍子に話が進みます。性別詐称が露見しないよう、右往左往する左大臣家の人々。
そんな折、綺羅姫にも尚侍として出仕の命が下ってしまい…。えっ、これって帝の後宮に入るってこと?

って、こう書いていると、とても奇妙な物語だなと改めて思いますね。
大体いくらなんでも男女の入れ替えを、こうまで多くの人に欺き通すのは無理なんじゃないかと思うのですが、そこはお話ですから!
原典を読んだことはありませんが、多少改変されているようです。もともとティーン向けに書かれたもので、原典のままだとちょっと…という配慮があったものと思われます。

この本で何といっても素晴らしいのは、全編に横溢する平安朝気分でしょう。
宮廷人としての意識、上下関係、ものの考え方、会話、現代人である私たちが読んでも、いろんなことが違和感なく収まっています。
サブキャラ一人一人、たとえば帝や女東宮の造型も素晴らしい。
帝が綺羅ばかり気にかけながら、ことさら冷たい態度をとったりするところとか、女東宮が綺羅姫に好意を持っている様子とか。
現代とは全く違う価値体系なのだけれども、人物たちがその中で紛れもなく生き生きと動いている。
登場人物たちが行動の規範として源氏物語を大事に思っていて、やたらと例に出すのもいかにもありそう。
現代作家でこういう、古典を自家薬籠中のものとして再構成し、エピソードを紡ぎ出せる人はほとんどいないのではないでしょうか。著者の作品がもう読めないのは残念なことだと思います。
(2016年46冊目)☆☆☆☆

宝塚宙組「エリザベートー愛と死の輪舞ー」

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●2016年10月15日
宝塚宙組公演
ミュージカル「エリザベートー愛と死の輪舞ー」(東京宝塚劇場)
出演:朝夏まなと 実咲凜音 純矢ちとせ 澄輝さやと 真風涼帆 愛月ひかる 蒼羽りく 結乃かなり 桜木みなと 伶美うらら

東京宝塚劇場で宙組「エリザベート」を観ました。
今年は雪組による日本初演から20周年のメモリアルイヤー。しかも久々の宙組公演です。全体としてレベルが高く、演目が宝塚にしっかり根付いていることを感じさせました。
昨年から東宝版がリニューアルされ、初演時のシシィ役、花總まりさんがキャストに入ったのは嬉しいのですが、宝塚の流れを引く旧演出版の方が良かったのに、と思う場面がいくつかありました。
今回宝塚版の「最後のダンス」や「闇が広がる」を観て、これこれ、これが観たかったんだよね、と思いました。

トート役の朝夏まなとは、予想よりずっとビジュアルが良かったです。やや丸顔でいらっしゃるまぁさま、さらさらのストレートヘアーが似合ってます。
最初の登場シーンで斜め上から光が当たって、美しいような怖いような感じで。この、この世ならぬ感じがトートらしい!登場のたびオペラで見てしまいました。
歌唱力はもちろん抜群。歌がストレスなく入ってくるのは何て気持ちいいんだろうと思います。
その時のトップスターによってトートの見た目も印象も全然変わりますが、こうでなきゃいけないというのではなく、いろんなタイプのトートを許容するのが、この演目の懐の深さだと改めて思いました。

実咲凜音のシシィは見た目も美しかったし、まずまず安心して見られたのでは。「私だけに」を始め、歌は裏声でも声量があって聴き易かったです。
バートイシュルの場面でドレスでバタバタあおいだり、お茶会でよそ見ばかりしているのがプリンセスぽくないとは思いましたが。
あと、「最後のダンス」で床に倒れ込む時にはドレスがふわっと広がって欲しいです。
真風フランツ。全体を抑え目にうまくまとめた感じです。こういう辛抱の役を好演して、今後も磨かれていって欲しいです。
私がしびれたのは愛月のルキーニ。なんという見た目の格好良さ!失礼ながら、普段とのギャップがありすぎです!
それだけでなく、全ての場面に狂言回しとして溶け込んで、芝居がさらさら流れていくのもこの人の力によるところが大きいと思いました。
この日は貸切だったので、2幕の幕開きでルキーニが「今日は貸切だけあって美人ばっかりだね。そのメガネもVISAで買ったの?宝塚のチケットも?」「じゃあ宝塚のチケット買うならって言うから『VISAカード!』って言ってね」客席も盛り上がりました。

役替わりのルドルフ役はこの日、桜木みなと。マダム・ヴォルフの伶美うららには、この人、こんな役もするんだとびっくり。
マデレーネ役はいつも楽しみなのですが、結乃かなり。妖しい魅力です。黒天使の時にも何となく探したりして。彼女が最後のパレードでにこにこしてたのでほっとしました。
朝夏・桜木の「闇が広がる」のダンスが懐かしい突っ張りのような振付で、嬉しかったです。また、真風・実咲の「夜のボート」が静かな諦念が漂って、大人の芝居でした。
暗殺後のルキーニがかなり狂気を前面に出した演技で、連れ出されていくのが怖かったです。
ラストは宝塚版ではおなじみ白い衣装のトート。穏やかなまぁさまの表情が素敵です。

ショー部分では、今回群舞で「私が踊る時」から「闇が広がる」へという流れが新しいと感じました。いつも、ショー部分はすぐ終わってしまいます。
終演後、朝夏まなとの挨拶がありました。「宝塚歌劇団、とくに宙組を宜しくお願い致します」の「とくに」に力のこもった挨拶でした。

「壁抜け男」

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●2016年10月13日
「壁抜け男」(劇団四季,自由劇場)
出演:飯田洋輔 鳥原ゆきみ 高井治 はにべあゆみ 明戸信吾 川原洋一郎 増田守人 澁谷智也 佐和由梨 折笠里佳子 笠松哲朗

初めて「壁抜け男」を観ました。
何の予備知識もないまま観たので、最初よく解らなかったです。
観ている最中より、あとから思い返してじわじわ来ました。
以下、感想。
初見なので間違ってるところや解釈違い、あるかも知れません。
ネタバレもあるかも。これから観劇という方はご注意下さい。

舞台はパリ。デュティユルは役場のクレーム係をしています。
ある日彼は、壁を通り抜ける能力を手にします。
お店のショーウィンドウからパンや宝石を盗んで人にあげたり、銀行の貸金庫の中身を入れ替えたりと「犯行」を重ねるうち、検事である夫に閉じ込められている女性イザベルを知ります。
やがて捕まったデュティユルは裁判にかけられることに。
劣勢に立たされるも、検事の弱みが記された書類を以前、貸金庫から持ち出しており、一気に形勢は逆転。ついに彼女と結ばれます。
ところが事態はそれで終わらず…。

なるべく仕事せず平穏な毎日を過ごすために、やる気のある人を排除しようとまで考える役場の人たち。彼らを含む市民たちが、壁抜け男が捕まったと知るや、彼の応援を始めます。
義賊みたいなことをしてるとはいえ泥棒だよ、何で?と思う私。
デュティユルの壁抜けに彼らが熱狂するのは、自分達の内心の夢や希望を重ねたからだろう、と推察できます。
「壁を超える」「壁を破る」という言葉がありますが、この作品の「壁」とは、外部から日常を守ってくれる一方、限界だったり自分を縛るカセだったり。
そこから一歩を踏み出す勇気を持つのは難しい!
彼らに代わってそれを実行したデュティユルを応援したいという気持ちが、彼らに行動を促したのだろうか。
一方、イザベルにとっての「壁」は牢獄のような抑圧の象徴で、デュティユルが「壁を抜ける」ことは解放、救済を意味すると思います。

デュティユルはイザベルへの強い思いによって、彼女を助け出します。
そういえば筒井康隆の小説「旅のラゴス」にも壁を抜ける男の話が出てきたな、と思い出しました。
ところが、です。
ラストで主人公はなんと「壁に捕えらえて」しまい、イザベルがそんな彼のそばに寄り添って終幕、となってしまいます。
うーん、これはハッピーエンドなのか?
壁抜けの能力を失うデュティユル、しかも今度は壁の中で動くことも出来ない。でも彼は、イザベルの愛は手に入れることができた。
いや、むしろ逆で、彼女を愛したから彼は壁抜けの能力を失ったのか?必要がなくなったから?だとすると、この状況は彼にとって幸せなことなのかも。
そう考えると、この奇抜なラストも暖かい気持ちで観終えることができそうです。
帰る道々、いろいろ考えさせられました。
この舞台はほとんどの場面が歌で進行しますが、どの楽曲も綺麗です。
「♪デュティユ、デュティユ」と佐和由梨さんの高い声が頭に残ります。久々に高井治さんのお歌が聴けたのも良かったです。
また機会があったら、観てみたいと思いました。

国立劇場「仮名手本忠臣蔵」第一部

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●2016年10月8日
10月歌舞伎公演「仮名手本忠臣蔵」第一部
出演:松本幸四郎 中村梅玉 市川左團次 坂東彦三郎 中村扇雀 中村錦之助 市川團蔵 市村萬次郎 市川高麗蔵 坂東秀調 大谷友右衛門 片岡秀太郎

「仮名手本忠臣蔵」通し上演の第一部を観ました。久し振りの国立劇場での観劇です。
国立の忠臣蔵というと、開場20周年の公演が思い浮かびます。当時の大幹部が勢揃いで豪華な配役でした。
今月の配役は、大星由良之助が松本幸四郎、塩冶判官が中村梅玉。

午前11時から約5時間半の上演。歌舞伎の公演はとにかく長いです。
はじめに口上人形が「お茶、お菓子など召し上がられ、ゆるりとご覧くださり」とか言ってるけど、さすがにそれは無理。あの静かな客席で煎餅ボリボリ食べたらどんなだろうとは思いますけど。昔は弁当幕とかいって本当に弁当食べてたんでしょうけどね。
何時間もじーっと大人しく舞台を観ているわけですが、基本、動きがないんですよね。武士の話だから、現代劇みたいにわっと取り乱したりせず、静かに舞台が進行していく。
その間にも、こっちの頭の中はいろいろ動いていて、例えば大序で顔世が呼ばれ、兜改めする場面。キンキラのいかにも特別製の兜が出てくるんだけれど、これが新田義貞のだって誰だって判るわ、わざわざ顔世呼ばなくてもいいじゃんと心の中で突っ込んだりしてました。

それにしても、刃傷のところ(三段目)と、判官切腹のところ(四段目)は泣けました。
梅玉の判官が、我慢しようと思うんだけど余りの恥辱に我慢できない気持ちとか、残される家臣のことを考えたり、由良之助に一目会いたい思いとか、そういうのが感じられて。
かつての梅幸の判官を思い出しました。
喧嘩場に向かっては、若狭之助とのいざこざのとばっちりで、師直が塩冶判官にねちねちと絡んでくる芝居ですが、どんどん判官の怒りが高まっていくのが辛いです。
師直役は左團次でした。最近ややお年をめされたように感じていましたが、松の間で判官をいじめる時に急に大きく見えたので驚きました。で、次の石堂の場面ではまた小さくなって。それが役者だなあと思いました。
幸四郎の由良之助。セリフの名調子と姿の立派さは、やはり幸四郎です。最後城に向かって平伏するのもきちんと型通りで。あんまり役を引きつけると感情的になってしまうところ、そうならないところが幸四郎の由良之助だなと。
由良之助がなかなか現れないで、力弥が悲しげに「いまだ参上…仕りませぬ」と答えます。やがて駆けてくる由良之助。どうにか間に合い「近う」と呼ばれてやっとお側に行きますよね。このくだり、家来の気持ちではらはらしました。
この刃傷と切腹、二つの場面を中心に、芝居もすこーしずつ高まっていく感じでした。

忠臣蔵はいつもダイジェストの公演なので、ほとんど上演されない場があります。三段目の「花献上の場」は41年ぶりだそうです。蟄居となった判官を慰めるため、顔世が腰元たちに花を活けさせます。
今回、改めて四段目までの通しを観て、ああ、ここはそういう意味だったんだと気付かされたところがありました。
例えば後の「道行旅路の花婿」で、鷺坂伴内が勘平とお軽にちょっかいかけてきますが、三段目「足利館門前」にはお軽に横恋慕する伴内が描かれています。
さらに六段目「勘平腹切り」で「色に耽ったばっかりに」の勘平のセリフの前段としては、刃傷の日、判官登城のあとにお軽と勘平が二人どこかに行っちゃう場面があります。そりゃ「主君の大事にあり合わさず」と後悔しますよね。
部分だけ観ると昔の芝居は雑駁だなと思っていたところもあるのですが、この「忠臣蔵」は通しで見ると驚くほど伏線なんかもしっかり張り巡らされている群像心理劇で、今までの見方が変わりました。

「望み」

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◆2016年10月7日
「望み」(KADOKAWA)
雫井脩介

雫井脩介の新作が出たというので読んでみました。
今回はミステリーというより、極限まで追い詰められた人間の心理劇とも呼べるようなものでした。

(以下ややネタバレあります)

この話の主人公は、建築家をしている夫とその妻。息子と娘が一人ずついます。
息子が家を出たまま帰らず、心配しているところにニュースが。同じ街で少年が殺害され、逃走したのは少年2人らしい。その後判明するのが、行方不明になっている少年が息子を含めて3人ということ。

状況が知れない中、帰ってこない息子が事件でどういう立場かわからないことが、彼らを苦しめます。
息子を信じる気持ちと、無事に帰ってきて欲しい気持ち。親として何を望むべきなのか…。
刻々揺れ動く夫婦の感情を、著者は丁寧に追っていきます。
切り出しナイフにまつわるエピソードが効果的に挟まれ、作品全体に響いています。
著者の作品は毎回違いすぎて、どんな作品か読むまでわかりません。今回はいずれに転んでも辛い、救いのない話ではありましたが、書きたいことは伝わってきました。
(2016年45冊目)

「大仙がい展」

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○2016年10月
「大仙がい展~禅の心、ここに集う」(出光美術館)

出光美術館の「大仙がい展」を見ました。
内容の余りの充実ぶりに、一度ではとても消化できないと思ったので、途中早々と再訪を心に決めました。
だって、一つとして見飛ばせる作品がない!
有名な「○△□」や「これくふて茶のめ」(一円相画賛)だけでなく、どれも含蓄にあふれていて、というと理屈ぽく感じますが、見ていてくすっと笑えたり成程なあと思わされたり、そんな作品が並んでいるのです。
たとえば、
 よしあしの中を流れて清水哉 (蘆画賛、地域での蘆の呼び方「よし・あし」を、「良し・悪し」に掛けている)

 気に入らぬ風もあろうに柳かな (堪忍柳画賛)

「絶筆宣言」を見ると、うず高く積まれた紙の束を前に、仙がいの困り果てた顔が目に浮かぶようです。
 うらめしや 我か隠れ家ハ雪隠か くる人毎に紙置て行く
あんまり多くの人が書画を頼んでくるので、83歳の時に絶筆宣言をし、隠居所の虚白院の入口に絶筆の碑まで建立します。しかし結局注文の多さにやめられず、再開したということです。

出光美術館、福岡市美術館、九大文学部の三大コレクション集結というのは30年ぶりだそうです。
普段東京では手に入らない絵はがきを何枚か買いました。「きゃふん、きゃふん」と鳴く犬が可愛いです。
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「天下人の茶」

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◆2016年10月2日
「天下人の茶」(文藝春秋)
伊東潤

利休について書かれた小説はたくさんあるけれど、私は真っ先に「利休にたずねよ」が思い浮かびます。利休の若き日を起点に、利休の美意識をあぶり出した作品でした。
この「天下人の茶」は趣きが大分違います。秀吉や弟子たちの目を通して、利休とは、その茶とは一体何だったのかを考えさせます。

「利休にたずねよ」が美意識をベースとするなら、本作が描くのは利休の政治的一面。私個人は前者に共感を覚えますが…。だって現代でも、お茶席のしつらえや道具を見る一瞬に、利休の凄さを感じることがありますから。
しかし、利休のこういう面を避けて通れないのも事実です。
印象的だったのが、秀吉が禁裏の茶会の前に「黄金の茶室」を披露する場面。
「かようなものは侘びではない」という言葉を弟子たちが期待する中、作中の利休が言うのは「殿下は己の侘びを見つけられた」。
本当のところ、利休が秀吉をどう思っていたかは知る由もありませんが、茶頭という立場で、権力者と折り合う方法は考えたに違いありません。実際には黄金の茶室は薄明かりで見ると幽玄であるとも思われますが、とにかく利休の「侘び」は一筋縄ではいかないようです。

戦の恩賞として茶道具に価値が付加された信長時代。そこから茶の湯を開放し、上下隔てない茶の湯を広めようとした(北野大茶湯や躙口の発明)、やがてそれが秀吉との軋轢になった、というのは理屈に流れ過ぎるきらいはありますが、頭から否定はできないかも。
利休が謀臣のようだったり、「精神世界を支配」までいうのはさすがに言い過ぎな気がしますが…。
利休の侘び茶、織部の「へうげもの」の茶、小堀遠州のきれいさび。茶の湯が時代とともに変わっていくことを思うとき、政治と芸術の不可分な関係が浮かび上がります。

上の写真は仙がい和尚の利休画賛(出光美術館蔵)。下の写真は大徳寺聚光院です。
(2016年43冊目)☆☆
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「KIITSU 鈴木其一」2回目

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○2016年9月30日
「KIITSU 鈴木其一 江戸琳派の旗手」2回目(サントリー美術館)

サントリー美術館の鈴木其一展がすごい混雑です。
あれ、其一ってこんなに人気あったっけ。琳派400年の影響なんだろうか。しかも来るたび混んでいく気がする…。
近年人気の若冲や蕭白と、どこか共通する受け入れられ方をしているのかもと思いました。

前回感想→http://senryokagan.blog.jp/archives/1061095517.html

作風が一定でないため掴み所がないようにも感じる其一ですが、個人的にはいくつか腑に落ちる点がありました。
「朝顔図屏風」は、明るい金地に緑青、群青が印象的。
これは光琳「燕子花図屏風」の翻案と言われていますが、画業後半の其一には、鮮やかな緑青、群青を多用した作品が多く、光琳への憧憬が見て取れるように思えました。(これがエスカレートすると、どぎつい色合いの「夏秋渓流図」になるのだと思いますが…)
「朝顔図」だけでなく、其一の屏風には明るい金地のものが多いですね。師の抱一が暗い金地や渋い銀地に抑制された色で描いたのと対照的で、この辺りに志向性の違いが窺えて興味深かったです。
形態描写については、あっさり洒脱な抱一風だけでなく、時に過剰とも思える描き方もしています。そういえば、軸先にまでびっしり描き込んだ描(かき)表装も、細部への拘りの延長かも知れません。
其一の水流表現には応挙の影響が見られるそうですが、今展示中の「松に波濤図屏風」は抱一の「波図屏風」と波濤の表現がそっくりなだけでなく、「波図」の構図をぐっと凝縮して、さらに波を部分的に松や岩に変換しているように見えます。こんな構図の換骨奪胎も其一的翻案の仕方なのかな、と思いました。

今展で面白いのは、其一の手紙類や旅行記の類です。
パトロンへの漬け物のお礼とか撫子の根分けのこと、光琳作品の鑑定、斡旋について書いたものとかに素顔が覗きます。
旅行記は息子の守一が原本を写したもので、実景写生のほか「信貴山縁起」や大徳寺の「牧谿三幅」(観音猿鶴図)の模写がされているのを見ました。
「新撰花柳百人一首募集摺物」は文字通り遊女たちから歌を募集し、優秀者の絵を其一が描いてあげますよ、という企画らしいです。昔から、いろんなことを考える人がいるもんですね。

作品の多くが途中で入れ替わるので、どの時期に見るかで大分印象が変わると思います。
私は「萩月図襖」の繊細な美しさに惹かれました。後半は「夏秋渓流図屏風」「風神雷神図襖」が登場するそうです。

「中国陶磁勉強会」

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○2016年9月18日
「中国陶磁勉強会」(根津美術館)

「中国陶磁勉強会」という、不思議な表題の展覧会を見ました。中国の陶磁器を時代を追って展示しています。
もっとも古いもので紀元前5000-6000年。現代の私たちが普通にイメージする中国陶磁とは宋~元時代の青磁とか、元以降の景徳鎮だと思いますが、これとは全く異なる紅陶や彩陶という土器が始まりだったのだな、と知りました。

鈞窯とか龍泉窯とか、時代と窯別に分類展示されています。なるほど、勉強みたいです。
南宋時代、建窯の「曜変天目茶碗」というのがありました。
曜変天目というと天下三絶の至宝と言われますが、藤田美術館や静嘉堂文庫の所蔵品のような、斑紋を光が取り巻くような光彩はないけれど、一緒に展示されている油滴、禾目天目と比べれば、確かに部分的に青みがかっているかな、という印象でした。

面白いのは展示室2です。国宝の「漁村夕照図」とともに、伝牧谿「竹雀図」「龍図」が展示されてて、牧谿特集みたいになってます。加えて、江戸時代の巻物「牧谿瀟湘八景図模本」。
軸装するために足利義満が切り、のち各家に分蔵されていた「瀟湘八景図」を将軍吉宗が集めて鑑賞会を試みたときに、狩野栄川古信(ひさのぶ、木挽町狩野家4世)が模本を作成し、さらにこれを模写したものだそうです。
本家の「漁村夕照図」と比べると、重層的に空気が波打つような湿潤感が出せていません。現在出光美術館蔵の「平沙落雁図」も、本家はもっと、あるかなきかの朧に描かれていたような記憶があります。

二階展示室は中国の漆器。中国漆器のイメージは湧かないのですが、よく考えると天目台なんかがそうですね。そして名残の茶と題した茶道具の展示。
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」の定家の歌が散らし書きされた四方広口釜を見ました。
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