千両過眼

東京在住の会社員です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

2021年06月

六月大歌舞伎「桜姫東文章 下の巻」


IMG_0805●2021年6月18日
六月大歌舞伎「桜姫東文章 下の巻」(歌舞伎座)
出演:片岡仁左衛門 片岡孝太郎 中村錦之助 中村歌六 坂東玉三郎

桜姫の下の巻。
桜姫とついに再会した清玄。桜姫をしつこくくどくうちに誤って自らの喉を刺して死んでしまいます。
権助により女郎屋に売られてしまう桜姫。しかし幽霊が憑いているといって権助の元に帰されてしまいます。酔った権助は、自分が桜姫の父親を殺し、家宝の都鳥の一巻を盗んだことを話してしまいます。それを聞いた桜姫は・・・。

上の巻ではあまりな展開に脳内ツッコミが忙しくて、なかなかお話を味わうところまで行きませんでしたが、今回はストーリー自体がいかにも歌舞伎らしい濃厚さなのに加えて、仁左衛門さん玉三郎さんの芸を堪能できました。
恋の妄執に憑かれた清玄と、悪の権化のような権助。この二人を仁左衛門さんが目まぐるしく演じ分けています。
玉三郎さんの桜姫は、最初はなよなよと成り行きに流されるだけだったのが、ぞんざいな女郎口調になり、真実に目覚めてからは悪を成敗して自らの矜持を取り戻すという、三段階の演じ分けが見事でした。
最後はハッピーエンド…というべきなんだろうなあ。桜姫のヒロイン物語にしては、途中までの桜姫の主体性のなさとか境遇の激変ぶりとかが、まさかここまでというような内容です。
さらに権助との間になしたからといって子を殺すのは現代のお話だったら考えられない展開ですが、そこはそれ今とは価値観が違う時代なんだなと思いました。

「百花繚乱ー華麗なる花の世界ー」


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○2021年6月5日「百花繚乱ー華麗なる花の世界ー」
(山種美術館)

むしょうに山種美術館に行きたくなり、行ってきました。
HPで見た紫陽花の絵が見たくなったのと、もう一つは日本画壇の伝統に浸りたくなったから、というところでしょうか。

四季の花々を描いた絵はポピュラーな画題であるだけに、これまでに見たことがない絵も多くて楽しめました。
山口蓬春の「梅雨晴」は空気が湿気を含んだような背景の色と、梅雨の晴れ間の太陽に照らされた紫陽花の色の組合せがことによい絵でした。季節に合う絵は格別に感じられます。
小林古径や小倉遊亀の絵の、器と華の取り合わせは私の好きな画題です。
日本画に描かれる蓮や牡丹などの花々は、凛と咲き誇る感じが日本人の伝統的な精神性を表しているような気もして、襟を正す感じになります。
巻進という画家の、琳派風の「明り障子」という絵が好みでした。
荒木十畝「四季花鳥」のみが写真撮影可となっています。

前日に見た「福富太郎の眼」は、福富氏個人の内面とともに、今は消えてしまった江戸情緒の名残と、大正から昭和初めの時代風俗を強烈に感じさせる絵が多かったです。それに対し、山種美術館の展示は、時代を超えて存在し続ける日本画という印象でした。
どちらがいいということはもちろんありませんが、両者の蒐集姿勢の違いを表しているような気がしました。
異なる二つの展覧会を続けて見たことで、自分の中のバランスがちょうど良い感じになりました。

「コレクター福富太郎の眼」


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○2021年6月
「コレクター福富太郎の眼 昭和のキャバレー王が愛した絵画」(東京ステーションギャラリー)

美術展にしばしば足を運びますが、私が見たことがないような展覧会でした。
あえていうなら、コレクター福富太郎という人の脳内世界トラベルを体験してきたような感覚です。

福富氏は1931年生まれで、キャバレー王と呼ばれた実業家。彼は少年期に家にあった鏑木清方の絵が忘れられず、絵画の蒐集を始めます。やがて清方だけでなく、対象はその周辺、戦争画や洋画にまで及びます。
本展では、福富コレクションから80余点を展示しています。

冒頭から多く並んでいるのは蒐集のきっかけともなった鏑木清方の絵。清方というと美人画を思い浮かべますが、ここに並んでいるのは美しいという観点だけで集められた作品ではないような、と気付きます。
「刺青の女」や、「冥土の飛脚」の道行きの情景から「薄雪」、泉鏡花からインスパイアされたという「妖魚」。
そう、ここに並ぶのは、福富太郎という人の趣味嗜好が色濃く反映した作品ばかり。彼の目を通して集められた絵画たちは、独特のワールドを形成しています。
次のコーナー以降、いっそうその感じは強くなります。
塩冶判官の妻(顔世御前ですよね)を高師直が覗き見する菊池容斎の絵、そこから派生した渡辺省亭の絵。
どことなく怖さを感じさせる島成園「おんな」。寺島紫明「鷺娘」や北野恒富の「道行」、池田輝方「お夏狂乱」などの芝居、とりわけ情念や心中物をテーマにした絵。美しくはあっても、絵の発する気は濃密でどろどろしています。
一方で夢二の「かごめかごめ」のようにノスタルジックな絵があったり、伊藤小坡「つづきもの」や池田蕉園「宴の暇」のような日常のさりげない一コマをさらりと描く絵もあって、このような絵からは存在への愛情のようなものも感じられます。おおらかな感じのする尾竹竹坡「ゆたかなる国土」も印象に残りました。
これら両極端に感じられるテーマの不思議な同居は、絵が描かれた、または絵が集められた時代を表しているのかも知れないし、これはこれでバランスが取れていると言えなくもありません。
もう一つ私が思うのは、これらの絵は現代の私達が美術館で見る日本画とはどこか違っている感じがすること(山種美術館や国立近代美術館にあるような作品はここにはほぼない)。
鏑木清方、上村松園はじめ大家と呼ばれる画家の作品もあるにはあるのですが、どこかにマニアックな雰囲気が漂っていて、近代画壇の流れとは一線を画している気がします。
浮世絵、挿絵といった、現代の画壇から見ると異なる流れを汲んだように見える作品群からは、大正から昭和初めの、ある種百花繚乱的豊かさも感じられました。
池田三郎助「あやめの女」、中村不折「落椿」などの洋画、これも個性的な作品が並びます。解説文に付された福富氏のコメントが読んでいて飽きません。
満谷国四郎「軍人の妻」、この作者の作品を見るのは2度目ですが、これも不思議な絵ですね。福富氏の眼がここでも働いているのを感じます。

日本でも個人コレクターのコレクションから出発した美術館がいくつもありますが、その多くが名画やネームバリュー、金銭的価値と美術史的価値を総合的に重視した蒐集だと思います。その点、福富コレクションは、純粋に本人の気に入った作品だけを買い集めて、その結果として福富氏個人のキャラクターが強烈に表れているのが興味深かったです。
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