千両過眼

東京在住の会社員です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

田辺聖子

「田辺聖子の古典まんだら 下巻」

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◆2016年7月31日
「田辺聖子の古典まんだら 下巻」(新潮文庫)
田辺聖子

「古典まんだら」の下巻です。
(上巻感想)
http://senryokagan.blog.jp/archives/1049355518.html

今巻で扱っているのは、
平家物語、方丈記、宇治拾遺物語、百人一首、とはずがたり、徒然草、西鶴と近松、芭蕉・一茶・蕪村、古川柳、江戸の戯作と狂歌。
田辺聖子さんの語り口による内容紹介が面白いことは言うまでもありませんが、古典の作者の人となりまでうかがわせて、はっとさせられます。
たとえば、「徒然草」のあらまほしき理想像や女性観。飲酒について。友人の善し悪し。
いい友達には三つあり、「物くるる友」「医者」「智恵ある友」(117段)。「兼好はずいぶん現実的ですね」と、田辺さん評。
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この本を読むと、教科書で習った歴史上の人たちに急に血が通ったように感じられます。作者や、その時代の読者たちが、私達と同じように暮らしていたのだなあと実感されるのです。
時間があるときにぱらぱらと読むだけでも楽しいです。

上の写真で、たくさん吊り下がっているのは、各地の風鈴です。
下の写真は海北友雪「徒然草絵巻」(部分)。
(2016年36冊目) ☆

「今昔まんだら」

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◆2016年2月14日
「今昔まんだら」(角川文庫)
田辺聖子

子供の頃、家の本棚に文学全集(確か、河出書房のカラー版日本文学全集だった)があって、この中の「今昔物語」を読んでました。「芋粥」や「鼻」は、芥川龍之介よりこっちが先だった気がします。
いま思うと何が子供の心をとらえたのか分からないけれど、絵本の昔話の予定調和とはどこか違ったテイストが物珍しかったのかも。

田辺聖子さんが今昔物語集や宇治拾遺物語といった説話文学から18のエピソードを紹介しています。
ここに所収の話も、勧善懲悪や因果応報、仏教的教訓とかにとどまらない訳の分からなさがあって、何を言いたいんだろうか?と考え込んでしまうこともしばしば。
仙人が通力で龍王を封印して雨が降らなくなったため、都から派遣される美女達。そのうちの一人が仙人を骨抜きにしてしまう話(通力を失った仙人はただの老人に)。
貧乏だった若い時分に妻に愛想尽かされ捨てられた役人が、出世して赴任した村でかつての妻に再会する話(いまの妻を去らせて元妻とよりを戻す。現・妻の立場なし!)。どこか、なんか変だぞ、というサインが頭の中で点滅する気がして、結局現代の価値観とは違うんだな、と思いました。

一方で、家族の情愛や人間の生きることへの執着などはいつの世も不変。このダイナミズムこそが、時代を超えてこれらの文学が生き続けている理由なのだな、ということを再認識。
岡田嘉夫画伯の絵も美しいです。
(2016年12冊目)

「田辺聖子の古典まんだら 上巻」

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◆2016年1月5日
「田辺聖子の古典まんだら 上巻」(新潮文庫)
田辺聖子

古典文学を愛し、これらに関するエッセイ、小説なども多い著者。このような作家がちゃんと現代にいて、研究者ならずとも、平易な言葉で古典に親しむことができることを幸せなことと思います。

このエッセイでは、古事記・万葉集や古今集、平安王朝文学、大鏡などについて紹介しています。
中学のときに「土佐日記」を習ったときは、一体何故貫之は女の振りして日記なぞ書くのだろうと奇態に思ったことでしたが、何時までも亡き子のことを書くのは、男としては成程、具合が悪かったのかもと初めて思い至りました。
ほかにも、
「もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」和泉式部の歌に表れる迸るような恋情や、
「蜻蛉日記」主人公の尽きない悩み、「枕草子」に籠められた美しい思い出をいつまでも留めたいという願い、
さらに「今昔物語」の、
「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波の浦ぞすみうき」の、思わぬ再会によって、かえって遠く隔てられてしまった、やるせない思いの遣り取り。

これらを読んでいると、時代は変わっても人の心は変わらないのだなあということが、しみじみと胸に迫りました。
著者の語り口が巧みなせいももちろんあるのですが、単なる古典紹介に終わらず、作品自体に触れたような感動までが味わえる名著だと思います。
☆☆☆(2016年-2冊目)
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