◆「江戸川柳で読む忠臣蔵」(グラフ社)
北嶋廣敏
何かとせわしない年の瀬ですが、この季節の風物詩といえば、やはり「忠臣蔵」でしょう!
本書は「忠臣蔵」に関する川柳ばかりを集めて紹介した本。
江戸川柳として現在約30万句知られているうち、赤穂事件のことを詠んだ句は、何と三千以上もあるんだそうです。
柄井川柳が「前句付け」(前句を出題して、それに付ける五七五の付け句を募集し、評点を付ける)の点者として活躍したのは、赤穂浪士の討ち入りから半世紀以上も後。それだけの時間が経っても、この事件が強く人々の関心を引いていたことがうかがわれます。
川柳の作者には武士もいたでしょうから、自らの身を義士になぞらえて、こんなことになったら自分ならどうするか、と真面目に考えた人もいたかも知れません。
紹介されている川柳のうち一番有名なのは、
「それまでは只の寺なり泉岳寺」
でしょうか。討ち入り後、一気に有名になったかのような泉岳寺ですが、もともと曹洞宗の江戸3ヶ寺の一つで、ただの寺、というわけではなかったようです。
今は聞かない言葉が使われていたり、当時の生活を読み込んだりしているものには解説がないと意味が分からなかったりするものもあります。「煤払いのあした汚れた名を雪ぎ」12月13日は、当時大掃除(煤払い)だったんだそうです。今でも家や地域によっては「煤払い」の風習が残っていると思います。
浅野を抱き止めた功で加増された梶川与惣兵衛を皮肉った「抱きとめた片手が二百五十石」、山科での大石の遊蕩を材にした「それまでは阿呆浪人だといわれ」、討ち入りを控えて義士たちが一斉に家や商売を引き払ったことを詠んだ「いさぎよく身代仕舞う十四日」などは、現代人にも分かりやすいです。
「そば切が二十うどんが二十七」は、討ち入り前に義士たちが蕎麦屋に寄ったという俗説を踏まえたもの。江戸と上方の味の好みの違いを表しているようですが、本書によれば討ち入りの頃、江戸に蕎麦屋はまだなかったということです。すっきりした句で私は好きなんですが。
討ち入り翌日の江戸っ子達の熱狂を表す「その翌日から皆義士の縁者顔」も、よく当時の雰囲気を表して面白いと思います。
明日12月14日は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日です。写真は、これも毎年この時期に必ず目にする新正堂の切腹最中。見た目のインパクトだけでなく、味もおいしいんです。