千両過眼

東京在住の会社員です。読書、舞台、展覧会の感想などを書いています。

辻村深月

「盲目的な恋と友情」

◆2021年12月
「盲目的な恋と友情」
辻村深月

「盲目的な恋と友情」を再読しました。
といっても前回読んだことすらすっかり忘れてて、初読み同然でしたが笑。
前半が「恋」、後半が「友情」の二部構成。

考えてみれば、そもそも恋と友情にどれだけの違いがあるのだろうと。
相手が同性か異性かの違いが両者を分けるのだとしても、その根にあるのは相手への執着以外の何ものでもないのかも。
「恋」は美貌の女子大生蘭花の一人語り。彼女と、自らが所属する学生オケの指揮に来る音楽家の茂実星近との恋愛模様を描いています。
対して「友情」は、蘭花と同じオケに所属する留利絵の一人称で、恋に夢中な蘭花に対する、彼女の思いが描かれます。留利絵の蘭花への一番の友でありたいという執着は、留利絵の幼い時からのコンプレックスと密接につながっています。
二人の語りは表裏一体であり、物事を表側と裏側から見ることで、読者はとくに意識せずとも「事実」のありかをあれこれと想像してしまいます。
ところが二人の主観は必ずしも事実とは限らないし、本人が語らない事実もあるのかも知れない。
叙述トリック的結末はそれとして、恋と友情が絶妙な駆け引きのバランスを保ちながら話が進んでいくところに小説的面白さを感じました。

「凍りのくじら」

◆2021年10月
「凍りのくじら」(講談社文庫)
辻村深月

書店で見かけて面白そうだなと思い手に取りました。
主人公、理帆子の父は藤子・F・不二雄氏を「先生」と呼ぶ。藤子氏は「SF=すこし・ふしぎ」と語っており、父の影響を受けて育った理帆子は、出会った人を頭の中でSF変換する。
「少し・不安」「少し・フラット」「少し・フリー」というふうに。
「少し・不在」と自己分析する理帆子に、一人の青年が「写真を撮らせてほしい」と言ってくる。

ドラえもん世界へのオマージュ的な作品だけあり、ドラえもんの道具が次々と作中に登場します。私自身は代表的なやつしか覚えていませんが、ドラえもんの道具は困難にあふれた世界を一変させるわけですよね。
ライトノベル風に振れ幅の大きな世界を描きながら、登場人物の内面をきちんと描くところは、この著者らしいと思います。

「傲慢と善良」

◆2019年3月
「傲慢と善良」
辻村深月

とても興味深く読みました。
ストーカーに狙われていると言ったまま、突然姿を消した婚約者。残された西澤架は彼女の居所を探し歩きます。
見えてきたのは、架の知らない彼女の姿でした。

以下ネタバレありますのでご注意下さい。
ミステリーと思って読み始めたのですが、違いました。婚活という現象を通して、現代社会の側面を表しています。
結婚相談所のオーナーの言葉「自分につけてる点数に見合う相手でなければ、ピンとこない」は深いです。
失踪した婚約者、真美の心の闇。彼女を取り巻く家庭環境。一方でマウンティングのために平気で他者を傷つける架の女友達。
これらが次第に明らかになっていき、同時に真美の現在地が語られます。
すごく簡単にいえば、結婚という大きなゴールに向けて危機を乗り越えていく話、なのですが、架がこんな目にあわされて真美を許す理由がわからないし、説得力が感じられませんでした。そもそもなぜ、この二人が恋愛関係に発展したのかも私は疑問です。
でもそれとは別次元で、とても面白かったです。

「盲目的な恋と友情」

◆2014年7月27日
「盲目的な恋と友情」(新潮社)
辻村深月

「どうして、いつの日も、友情は恋愛より軽いものだというふうに扱われるのだろうか。(中略)恋はいつ終わるとも知れない軽いものなのに、長く、ずっと続く友情の方は、話題になることが、ない」 (「友情」)

大学の吹奏楽部に在籍する二人の女性の視点から描かれる小説です。
美しく人気者の蘭花の恋愛話と、彼女に対する瑠利絵の友情(コンプレックスゆえの執着といってもいい)が表裏一体の関係で描かれます。

それにしても、盲目的な恋は理解しやすい言葉だけれど、盲目的な友情というのは…。
ありがちなドロドロ劇を描く「恋」の章。それに対し、恋>友情という不等号な関係への異議がテーマとなっている「友情」の章。でも、そもそもこの二つって対立項になりうるのだろうか…。
恐らく「友情」の章で描かれているのは、本当は友情なんかではなく、選ばれたい、自分はここにいる!という自意識なんでしょう。そう考えれば、納得できます。
二人のすれ違いは、終盤の事件へ行き着きます。ここで急に叙述ミステリーになってしまうのが、おやおやという感じ。
ドラマのラストが突然クイズ番組になってしまったような違和感を感じました。

写真は、不室屋の麩のパフェです。
(2014年-42冊目)

「島はぼくらと」


◆2013年7月13日
「島はぼくらと」(講談社)
辻村深月

瀬戸内海に浮かぶ小さな火山の島・冴島。中学を卒業すると、島の子供たちは毎日フェリーで本土の高校に通う。
やがてそれぞれの進路へと分岐していく、4人の少年少女たちのひとときを切り取った物語。
(以下、ネタバレあります。ご注意!!)

この本を読むと「故郷」って一体何なんだろう?と考えさせられます。
冴島では、都会からのIターンとさまざまな事情を持つシングルマザーを積極的に受け入れる施策で、地元住民との独特のコミュニティーが成立しています。
冴島に住み着いたシングルマザーの一人は、もと水泳の銀メダリスト。故郷の会社に所属しながら選手生活を続けてきた彼女は、テレビで紹介され、自分が有名になるにしたがい、無遠慮に自分に“乗っかろうとしてくる”地元の人や親戚たちに疲れ果てていました。
やがて子を身ごもった彼女は思います。「ここから逃げなければ」と。
多くの人にとって、故郷は「心の依りどころ」と言われます。新聞やテレビで見る「ふるさと」という言葉には、懐かしい思い出と、子供の時から見慣れた桃源郷みたいな景色、というニュアンスが漂います。
だが、しかし…。故郷が全ての人に優しい、なんてのはもちろん幻想。現実には、故郷で幸せな一生を過ごす人もいれば、何らかの理由でそこを出る人もいる。
この小説には、ほかにも地縁(と血縁)のしがらみにまつわるエピソードが描かれます。地域には地域の論理があり、そこから逸脱しようとする者への辛辣さが示されています。主人公の少年少女たちは、そういった故郷の「おじさんたち」を大人気ないと陰口を叩きながらも、ある部分では理解しようと努めます。

この島の子供たちは、高校卒業と同時に、そのほとんどが島の外に出て行く、という前提。親もそのつもりで子育てします。
朝夕のフェリーでの行き帰り、毎日過ごす4人の時間。卒業後の進路はばらばらでも、そのように蓄積された時間こそが彼らにとって大事なものなのだ、と気付きました。
当初思っていたのとは違った内容の小説でしたが、ほろりとするエピソードもあり、読んで良かったです。
(2013年-57冊目)☆☆

「オーダーメイド殺人クラブ」

DSC_0252.jpg◆2011年9月28日
「オーダーメイド殺人クラブ」(集英社)
辻村深月

地方に住む中学2年生、バスケット部に所属する、ごく普通の少女・小林アンは、その美意識ゆえに、世界の凡庸さから逃れて“特別な存在”になることを夢見ます。
アンの望みは、誰も見たことのないような「事件」の被害者となって、人びとの記憶に刻まれること。
殺人事件の新聞記事をこっそりスクラップしたり、書店に置いてある写真集の、退廃的な人形の写真に自分を重ねたり。
ある日河原で、アンはクラスで隣の席に座っている"昆虫系男子"徳川の異様な行動を目撃します。

今年の直木賞候補にもなった作品です。
思春期特有の潔癖さ、自分は他人と違うという強烈な自意識、クラスメートや家族への反感と軽蔑。本文中に出てくる「リア充」だけれど「病んでる」という一連の表現に“中二病”という言葉にとどまらない、今日的なティーンの葛藤がよく出ていると思います。
「共犯者」である少年・徳川を、当初“昆虫系”(=イケてないキャラモノ男子)という言葉で見下していたアンですが、二人の関係が変化していく過程が興味深いです(その関係性について、ずっと後になって、アンが初めてそれと気付くところも面白いと思います)。

ラストの結末にはすんなり納得できました。キツイ描写が多い割に、案外爽やかな読後感。
少女の心の葛藤と成長を描いた作品として、異色ではありますが、秀作と思います。
(2011年−91冊目)
☆☆

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