◆2011年8月1日
「オリガ・モリソヴナの反語法」(集英社文庫)
米原万里
2002年に発表された故・米原万里氏の小説です。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」と対をなす作品といえます。
1960年代の一時期、プラハのソビエト学校に在籍した日本人の志摩は、ソ連崩壊後の1992年、モスクワを訪ねます。
その目的は、在校時に強烈な罵倒言葉と「反語法」で学校に君臨していた老ダンス教師・オリガ・モリソヴナと、いつも彼女と行動をともにしていた仏語教師・エレオノーラ・ミハイロヴナの二人について調べるため。
かつての級友と再会し、ともに過去の資料を掘り返し、彼女らを知る人を探して話を聞きだすうちに、謎の答えが次第に垣間見えてきます。
在校時に「オールド・ファッション」と呼ばれたこの二人は果たして何者だったのか?
二人をめぐる物語の背景には、20世紀の波乱に満ちたソビエト史が横たわっていました。
少女時代に教師であるオリガからダンスの薫陶を受け舞踏家を目指しながらも、今はロシア語の翻訳者をしているという志摩には、ある部分、米原さん自身が投影されているようです。
米原さんも、彼女のその後の人生に大きな影響を与えたであろう少女時代の多感な数年間を、プラハのソビエト学校で過ごしています。
その意味で、この作品に描かれた過去を取り戻すためのモスクワの旅は、フィクションではありながら、米原さん自身の精神的なルーツを探す旅でもあると思われます。
「嘘つきアーニャ」で描かれた東欧諸国と同じかそれ以上に、ソ連時代のモスクワでは多くの市民が過酷な運命に晒されていました。
ことに本書の多くの部分を占める女性の「ラーゲリ」(強制収容所)の記述が生々しく強い印象を残します。
新聞やラジオ、文通までも禁じられ労働に明け暮れた絶望の日々の中で、女囚達が皆で「記憶の中にあった本を思い起こし、声に出してああだこうだと補い合いながら楽しむようになった。」「自由の身であった頃、心に刻んだ本が生命力を吹き込んでくれた」というくだりに、人間の生命力の強さを感じさせられました。
作品後半で、二人の「オールド・ファッション」の謎が明らかになっていきます。私たちが想像できないほどの波乱の人生。その衝撃にページをめくる手が止められません。
それにしても、著者である米原さんの特異な経歴と能力、これなくして本書も「アーニャ」も世に出なかったことを考えると、米原さんが2006年にこの世を去ったことによって、世界は、近代のソビエト・東欧史を自国人以外の立場から語ることのできる、貴重な書き手を失ってしまったことを、改めて思いました。
巻末に、本書が受賞した「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」の選考委員でもあった池澤夏樹氏との対談が載っています。(2011−78冊目)
☆☆☆